秀吉の軍門に降った後、長宗我部元親、信親親子は、秀吉から九州征伐の命をうけ、その先鋒隊として、豊後に赴く。大友宗麟を救うためこの地をたった土佐勢は3,000、讃岐の仙石(せんごく)、十河(そごう)軍とあわせ6,000余の四国勢は島津軍と対峙。豊後、戸次川(現在の大野川)に戦う。大激戦のすえ四国勢は総崩れとなり、わが軍は信親以下、700余名の将兵を失う。 信親、享年22。 遺骸はかの地で荼毘に付し、高野山に葬る。のち、分骨し長浜、天甫寺(てんぽじ)に、さらに今は雪蹊寺境内にその臣達と共に眠る。 時に天正14年(1586年)12月12日。 長宗我部氏滅亡の端緒となり、土佐国の命運を分かったこの戦いを知る人は余りに少ない。 秦神社に祀る霊板を銅(あかがね)に写し、もって慰霊鎮魂の標(しるし)としたい。 |
この銅像は元親公没後400年に当たる平成11年(1999年)5月に、地元有志の発案により建立されました。 元親公は永禄3年(1560年)5月、22歳の折り、本拠地の岡豊(おこう)城を進発し、宿敵、本山氏の守る長浜城を陥落させ、初陣を飾りました。その際、若宮八幡宮の社頭に陣を張り、戦勝を祈願したことから、この地に初陣の雄姿を再現したものです。その後、約25年をかけて四国全土を掌握しましたが、豊臣秀吉の軍門に降り、慶長4年(1599年)に61歳で京伏見の館に没しました。 銅像の高さは台座も含め約7メートル、槍の高さは5.7メートルあります。 |
頃は永禄3年(1560年)5月末、 22歳で初陣を迎えた若武者元親は 父国親と共に宿敵本山勢の立てこもる 長浜城攻めに取りかかる。 決戦前夜、若宮八幡宮社頭の この地に陣をはり、必勝を祈願し、 見事これを打ち破る。 初陣以来25年、 ついに四国全土を掌握す。 元親公没後400年に当たり、 文武両道にわたる公の郷土への 偉大なる業績を顕彰し、 歴史に名を残しながら 悲運のうちに倒れた長宗我部一族や、 あまたの武将達の御霊を鎮めると共に 末永く郷土の誇りとして 語り伝えん為、この像を建つ。 |
長宗我部元親公は当社を出陣祈願の社と定む。天正14年秋、豊臣秀吉軍の先峰隊として九州征伐に赴く際、社頭に武運長久を祈りいざ出陣という折りも折り軍旗が鳥居の笠木にかかり墜落す。衆人これを不吉となし、出陣を見合わす形勢となるも、公は殊更に「敵を笠にかけて討つの吉祥前兆である」と祝し出陣す。 果たせるかな、豊後戸次川(へつぎがわ)にて島津軍と戦うも惨敗し、嫡子信親公以下、700余人の将兵は異郷に討ち死にす。帰郷後、元親公はこの鳥居を不詳の鳥居とし海上遥かに流しやる。爾来280年間、鳥居なき社として有名なるも、慶応元年、地震の際、鳥居の根石の自然に浮き出しことから衆人これを神意となし、再建す。 時に明治3年3月の事なり、更にその後昭和11年1月に建て替え、昭和55年10月には従来の木の鳥居から鉄筋コンクリートの鳥居に変わり今に至る。 |
12月30日 己卯 諸国の地頭職を拝領せしめ給うの内、土佐の国吾河郡を以て、六條若宮に寄附せしめ給う。彼の宮は、故廷尉禅室六條の御遺跡を点じ、石清水を勧請し奉らる。廣元の弟秀厳阿闍梨を以て別当職に補せらるる所なり。 |
鎌倉幕府開府の基礎を固めた源頼朝公は、祖父為義公の慰霊と源家の長久を祈り、京都六條にあった左女牛若宮(さめうしのわかみや)を創建し、土佐国吾川郡一円を同社の神領地として寄進した。その神地鎮護の神として石清水八幡宮の御分霊を御勧請したのが当社である。(以上「吾妻鏡」より) 鎌倉、室町の時代を通じ、特に武家尊崇の神社として栄え、ことに戦国時代の永禄3年 (1560年)5月、長宗我部元親公は初陣に臨み、当社の馬場先の松原 (現:鎮守の森公園) に陣を張り、一夜戦勝を祈願し、長浜城を攻め落す。以来、当社を戦勝祈願の第一社と定め、社殿を出蜻蛉(でとんぼ)式建築と改める。これに対し、一宮(いっく)の土佐神社を凱旋報賽社とし、入蜻蛉(いりとんぼ)式に改めたことから、両社は対をなす土佐独特の神社建築となっている。 慶長5年 (1600年) 山内一豊が新しく土佐の国守に封ぜられ、当初、浦戸城に、その後大高坂城に移住されてからも崇敬の念篤く、祈願八社の中の一社として、年々の祭典を厳修され幕末を迎えた。 維新後、明治6年 (1873年) には郷社に、昭和5年には県社に列せられる。戦後は宗教法人として長浜、御畳瀬、浦戸、瀬戸、横浜、横浜新町の総鎮守として、更に厄除開運の神、安産の神、海上安全の神、戦勝祈願の神、雨の神として広い信仰を集め、今日に至っている。 なお、昭和60年 (1958年) 12月には、御鎮座800年祭が盛大に斎行され、記念事業として社務所の改築や境内の整備が行なわれた。 |