2022年神奈川

帆船日本丸〜長谷川伸の文学碑〜
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横浜市西区みなとみらいに旧横浜船渠第一号船渠ドックがある。

旧横浜船渠第一号船渠ドックに帆船日本丸があった。


 帆船日本丸は、全国商船学校の練習船として、昭和5年(1930年)に建造されました。外航商船の船長を目指す若者の訓練に、太平洋を中心に航海してきました。昭和59年(1984年)、新日本丸の建造を機に現役を退くまでの約54年間に、地球を45.4周する距離(延べ183万Km)を航海し、11,500名の実習生を育てました。練習船としての使命を終えた日本丸は昭和60年(1985年)4月から旧横浜船渠第一号船渠ドック(国指定重要文化財)で現役当時のまま保存されています。現在は、平水区域の船の練習帆船として整備・維持されながら船内公開をはじめ、帆船の訓練・生活を体験する海洋教室やすボランティアの協力で29枚すべてを広げる総帆展帆などを行っています。

帆船日本丸


昭和31年(1956年)、長谷川伸は第4回菊池寛賞受賞。

長谷川伸の文学碑


昭和60年(1985年)10月17日、建立。

 先生の本名は長谷川伸二郎、明治17年(1884年)横浜日の出町で生れた。8歳のとき家業の土建業が倒産し、それからは自力で働き続け小学校も3年で退学した。

 20歳のころ横浜のジャパン・ガゼット紙の記者になり27歳のとき東京の都新聞の伊原青々園氏へ手紙を送って入社、筆名で短編を発表するうち、菊池寛氏に認められた。大正14年、41歳で退社し作家として出発した。以来、小説と劇作の双方で華々しい活躍が始った。

 先生は生涯を通じて、文学の師は持たなかった。該博な知識はすべて独学で得たものであった。

 股旅物の始祖といわれたが先生の作品の真骨頂は歴史小説、それも歴史の隅に葬り去られた眞実や無名の人々を掘り起こした紙碑と自ら呼んだ一連の作品であった。

 先生を慕って集る後進の育成に当り劇作研究の二十六日会、小説研究の新鷹会を主宰した。昭和38年6月11日79歳で他界するまで、おびただしい数の長篇、短篇、100篇を越える戯曲それに紙碑と唱える著作がある。

 「生きるとは、生きる価値を見つけることだ」

 最後の病床で、先生は言い残された。

 少年のころ先生が働いていた横浜の旧ドック跡に一生を人のために費し、無私を貫き通した先生を記念して、多くの人々の助力の下にこの文学碑を建てた。

門弟代表 村上元三

横浜には多くの文学者がいたのだ。

野毛山公園へ。

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