2016年鹿児島

照国神社〜島津斉彬〜
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鹿児島市照国町に照国神社がある。

照国神社境内に「贈正一位島津斉彬之像」があった。



巨大な鳥居は、功績の象徴
−英主島津斉彬を祭る−

 早くから開国論を唱え西郷・大久保を指導して幕政改革をめざした島津家第28代藩主斉彬は、1858年7月15日、炎天下での閲兵が災いしてその後にわかに発病、あっけなく49歳の生涯を閉じました。幕末史に強烈な印象を残す英明藩主斉彬のリーダーシップは、中央政界での活躍の他、藩政においても発揮され、集成館事業(造兵事業)を手始めに紡績事業、造船事業を起こし、電信、製鉄、写真、ガラス、ガス灯などの西洋文化を積極的に取り入れ、日本の近代化の基礎を築いたのです。

 斉彬の開化事業は、当時鹿児島を訪れたオランダ人技術将校が一目見て驚嘆する程の水準にあったことが記録されています。死後朝廷は、その数々の功績を讃え、照国大明神の神号を贈りました。

 そこで、元治元年(1864年)鶴丸城西側の南泉院跡に一社を造営、照国神社が創建されたのです。境内に島津斉彬、隣の探勝園には久光、忠義の銅像が建っています。

鹿児島市観光課

探勝園には「從一位島津久光公之像」があった。



島津久光公像

 島津久光は島津家第27代当主斉興の第5子として文化14年(1817年)鹿児島城(鶴丸城)に生まれました。第28代島津斉彬の異母弟にあたり、斉彬の遺言で久光の子の忠義が藩主となると、その求めに応じて「国父」として藩政の実権を握り、忠義を後見しました。文久2年(1962年)、斉彬の遺志を継ぎ、朝廷を奉り、幕政改革を志して千人の兵を率いて上京。江戸から帰る際には薩英戦争へとつながる生麦事件がおこりました。その後、公武合体運動を進めますが思うように進まず、ついに倒幕へと向かいます。

 明治以降になると、明治6年(1873年)に内閣顧問、翌年には左大臣となりますが、政府首脳との対立もあり、明治8年(1875年)には辞任して鹿児島へ帰郷し鶴丸城二の丸に入りました。しかし、西南戦争が起こると、中立を守って桜島に移居。西南戦争後は、二の丸も焼けたため、第27代斉興が建てた玉里邸を再建して隠居。晩年は歴史書編纂に努めました。明治20年(1887年)に70歳で病没し、国葬により福昌寺墓地に葬られました。この際に玉里邸の黒門から国道までの新しい道路がつくられましたが、この道路は「国葬道路」と呼ばれています。

鹿児島市

「從一位島津忠義公之像」



島津忠義公像

 島津忠義公は天保11年(1840年)、島津久光の長男として生まれました。島津家第28代斉彬の遺言によって斉彬の娘と結婚、薩摩藩主となり、祖父の斉興、父の久光の補佐を受けながら、藩政改革と陸海軍の充実に努めました。

 文久2年(1862年)の久光の率兵上京、藩政改革、生麦事件、薩英戦争には藩をあげて行動するとともに、薩英戦争後イギリスとの関係改善を図り、五代友厚などの使節団や留学生を派遣して人材育成を図るとともに、日本最初の紡績工場をつくるなど、集成館事業の充実に努めました。

 明治維新後には、長州藩、土佐藩、佐賀藩などとともに、進んで版籍奉還を行い、鹿児島藩の知事、後に貴族院議員となりました。幕末から明治維新の真っただ中に生きた忠義は律儀な性格で、父・久光の遺言で死ぬまでマゲを切らなかったといわれています。明治30年(1897年)、58歳で没しますが、父・久光と同様に国葬が行われました。

鹿児島市

鹿児島から宮崎に戻る途中で車窓から桜島が見えた。



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