2022年鹿児島

多賀山公園〜東郷平八郎像〜
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鹿児島市清水町に多賀山公園がある。

東郷墓地と多賀山公園

「皇國の興廃此一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」

 明治38年(1905年)旗艦三笠にZ旗がひるがえり、 日本海海戦の火蓋が切っておとされました。東郷平八郎は連合艦隊司令長官としてこの海戦を指揮。丁字戦法によって無敵のロシアバルチック艦隊を全滅させたのです。

 弘化4年(1847年)加治屋町に生まれ、15歳で薩英戦争に参加。イギリス海軍の力を目のあたりにして、強い海軍を人生の目標とした少年は、イギリス留学を振りだしに海軍の増強につくし、世界の名将といわれるまでになりました。墓所として多賀山が選ばれたのはこの地が鹿児島港に入る艦船から真正面に見える位置にあることと、東郷を海軍に進ませた薩英戦争の遺跡・砲台跡を真下に見る場所であったからです。晩年、東宮学問所総裁をつとめた東郷元帥は、昭和9年(1934年)88歳で亡くなり、国葬によって多摩墓地(東京)に埋葬されました。多賀山には元帥の遺髪が葬られ、銅像が建てられています。

 多賀山は、島津氏が鹿児島郡司矢上氏の一族、長谷場氏を攻め落とし居城とした東福寺城跡の南に当たる山で、山上からは鹿児島市中心部のほぼ全域が望めます。

 島津家第16代義久が、寿命の神として祀らせた多賀神社(本社・滋賀県)からこの名がつきました。

鹿児島市

元帥東郷平八郎墓


東郷元帥五十年祭記念聖将之碑


東郷元帥の碑


 東郷元帥に聖將の名を贈れば固辞されるであろう、謙譲の徳はその特質の一つだからである。然し天下の名將と呼ぶなら元帥は断わることは出來ない。何故なら海上決戦に依て其祖国を救った二大提督は、日本の東郷と英国のネルソンであると、世界が既に公認して居るからである。

 明治三十八年五月二十七日、我が連合艦隊司令長官東郷平八郎は、旗艦三笠の檣上高く『皇國の興廃此一戦に在り、各員一層奮励努力せよ。』の信號を掲揚して敵の艦隊を対馬水道に迎え、各員東郷に帰一して見事に撃滅の大勝を遂げ、文字通り皇國の興隆の基を此一戦に定めた。

 誰か知らん、弘化四年十二月二十二日、鹿児島市加治屋町加治屋町に、東郷吉左衛門の四男として生れた仲五郎君が、日清戦争中、軍艦浪速の艦長として、英国の高陞號撃沈事件に、其英断と国際法的教養の故を以て一躍名聲を揚げ、次で日露戦役に歴史的偉勲を樹て、後に轉じて東宮御学問所總裁の大任を拝し、国本の伸張献ずる大人物の生涯を成そうとは。故ある哉、君青少年期に早くも大西クの薫陶を受け、十七歳のとき薩英戦に出陣して国防を識り、維新の役に函館の海戦を戦い、二十四歳にして帝国海軍見習士官となり、二十五歳より三十二歳までの八年間を英国に留学して、兵理学法実際を修め、帰来艦長及び司令官を歴任して提督たるの天質を磨く。その間、病に侵さるること両回に及ぶも、能く忍耐と闘志とに依て之を克服し、併せて人間の道を修得且つ大成したのであった。

 元帥の場合、一將功成りて萬卒榮ゆ。蓋し世の追從を許さないものである。ネルソンの像が、英京ロンドンの繁華街にあるのも一種の方式である。元帥の像が、郷友と共に故山の風物を眺めて起つは亦美しい哉。

   昭和三十二年五月二十七日 伊藤正徳撰

東郷平八郎像


昭和32年(1957年)5月27日、雨田光平制作。

この銅像は横田晴雄氏が岡山市の県郷土館に陳列されていた銅像を日本海戦50周年にあたり有志とはかってここに移設したものである

桜島が雪化粧。


鶴丸城跡へ。

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