約100年前、皇室の別荘である「須磨離宮」が建造されました。 総檜造り2階建ての御殿は、大正天皇や皇后、昭和天皇、満州国皇帝の溥儀もご利用されました。 「各所に離宮・御用邸ありといえども、武庫の如き風景佳絶なるは無し」と、須磨離宮の庭園設計者・福羽逸人(ふくばはやと)は「回顧録」で延べています。 昭和20年の空襲で御殿は焼失、進駐軍射撃演習場を経て昭和42年、離宮公園が正式開園します。 |
須磨涼し 今も 昔の 文の如 |
須磨の浦は、古来万葉集、源氏物語、笈の小文其の他の日本の文学に詠われている。又平家が栄耀を極めてすぐ滅亡した史蹟がある。それやこれやを今日に伝えている須磨に来て涼風に吹かれながら懐古の情を禁じ得ない。 昭和16年6月、須磨にての作 |
昭和52年(1977年)12月4日、かつらぎ神戸新人会建立。 平成4年(1992年)12月22日、波野青畝須は93歳で永眠。 |
いくたびか立ちかへり 見し松かけに月を 寄せくる須磨の浦浪 |
ここは月見山。千年以上も昔から、月を愛でる場所として親しまれてきました。 平安の貴族であり歌人の在原行平(業平の兄)がこの地で月見をします。 京の都を想い、遠く須磨までやってきた心を慰めたのでしょう。 約100年後、行平をモデルに源氏物語が須磨の月見の憧憬から書き始められます。 「今宵は十五夜なりけり・・・」 紫式部は琵琶湖(瀬田川)の水面に映る名月を眺めながら須磨の月を想い、物語の重要な転換場面である「須磨の巻」を描きます。主人公・光源氏も行平同様、月を眺めて都で待つ紫の上らを思うのです。 見るほどぞ しばし慰むめぐりあはむ 月の都ははるかなれども (見ている間は暫くの間だが心慰められる、 また廻り逢える月の都は、遥か遠くであるが。)
(光源氏)
こうして須磨は月の名所となり、江戸時代には松尾芭蕉が、月に憧れて須磨を訪れます。江戸期の名所図会等に登場する名勝「行平月見の松」は、かつてこの辺りにありました。天皇の別荘「武庫離宮」造営の際には、御殿より見て月の出る方向にあずまやを建てます。 現在でも「月見山」は駅名や地名に残っています。古来より月見の名所とされた、この「月見山」からの名月を、ゆっくりとお楽しみください。 |