2023年兵 庫

御着城址〜黒田官兵衛〜
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JR神戸線御着駅下車。

姫路市御国野町御着に御着城址がある。


御着城跡

 御着城は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣小寺氏の居城。永正16年(1589年)小寺政隆が築城、則職・政職と継承され天正6年(1578年)か7年に羽柴秀吉の播磨侵攻で滅亡したとされるが、嘉吉年間(1441〜44)にはすでに構居が設けられていたとされ、明応年間(1492〜1501)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能をもつ城郭として機能していた。

 昭和52〜54年の発掘調査で、御着城が14世紀後半から16世紀後半まで存続し、16世紀半ばに大・ 中型の堀や土塁が築かれ本格的な縄張りが行われた事が判明。中世の人びとの生活に深くかかわる土器・陶磁器・木製品・石製品等の遺物も検出された。

 宝暦5年(1755年)の「播州飾東郡府東御国野庄御着茶臼山城地絵図」には城の中核に本丸と二の丸、西と南は天川を利用した二重の堀、 北と東は四重の堀、外郭部に家中屋敷や町家の記載があり、惣構えの城が描かれている。現在、御着城跡の中央を東西に国道2号線が走り、本丸跡に市役所東出張所・御着城公園・御国野公民館があります。

姫路市教育委員会

御着城跡公園


姫路市役所東出張所

御着城本丸跡に黒田官兵衛顕彰碑あった。


黒田官兵衛孝高と御着城

 黒田家は、「寛政重修諸家譜」などによれば近江国伊香郡黒田村(現・滋賀県長浜市木之本町)の出身とされます。重隆の代に播磨に入り、御着城主小寺政隆に仕えました。

 御着城は永正16年(1519年)に築城されたと伝わりますが、明応4年(1495年)に小寺氏は御着納所で段銭を徴収しており、15世紀末には既にこの地域を拠点としていました。羽柴秀吉による播磨侵攻で御着城は天正7年(1579年)に陥落しました。

 黒田官兵衛孝高(ママ)は、羽柴秀吉の播磨侵攻、中国攻め、四国・九州遠征などで軍師として活躍し、天正15年(1587年)に中津城(現・大分県中津市)を与えられました。孝高の嫡男長政は、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の戦功で筑前52万3千石を与えられ福岡城(現・福岡県福岡市)に移りました。

 この地は、かつての御着城本丸跡付近に位置し、黒田官兵衛孝高の祖父重隆と父職隆の妻(孝高の母)を祀った黒田家廟所(姫路市指定史跡)があります。また南側には小寺三代城主を祀った小寺大明神があります。

姫路市教育委員会

JR神戸線御着駅


中之島緑道へ。

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