2009年群 馬

高崎城址〜乾魯・東門〜

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高崎市高松町に城址公園がある。


乾魯


高崎城址(高崎城三の丸外囲の土居と堀)

 箕輪城に封ぜられた井伊直政が、家康の命令で慶長3年(1598年)に中山道と三国街道の分岐点にあたる高崎に城を構えたのが高崎藩の起こりです。 直政は、箕輪から町屋や寺院を移転させて城下町の基礎を築きました。今は三の丸を囲む土塁と堀が残るのみですが、本丸、二の丸、三の丸を囲郭式に構え、二の丸を本城とし、三の丸に武家屋敷を置きました。また、遠構えと呼ぶ城下町を囲む堀と土塁も築かれていました。明治4年(1871年)の廃藩までの273年間の高崎の近世の歴史は、高崎藩政を中心に展開したといっても過言ではないでしょう。

 都市化が進み、昔日のおもかげを残す箇所は少なくなってしまいましたが、「乾魯」や「東門」は復元整備されており、明治初年の三層櫓の写真や「高崎城大意」、「高崎城断面図」、「御城御土居 御植物尺付絵図」等の資料が残されているため、当時の姿を知ることができます。

高崎市教育委員会

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの後、直政は近江国佐和山城に移封。

東門


高崎城東門の由来

 高崎城16の城門中、本丸門、刎橋門、東門は平屋門であった。そのうちくぐり戸がついていたのは東門だけで、通用門として使われていた。

 この門は寛政10年正月(1798年)と天保14年12月(1843年)の2度、火災により焼失し、現在のように建て直されたものと考えられる。くぐり戸は乗篭が通れるようになっている。門は築城当初のものよりかなり低くなっており、乗馬のままでは通れなくなっている。この門は明治のはじめ、当時名主であった梅山氏方に払いさげられ、市内下小鳥町の梅山大作氏方の門となっていた。

 高崎和田ライオンズクラブは、創立10周年記念事業としてこれを梅山氏よりゆずりうけ復元移築し、昭和55年2月、市に寄贈したものである。

昭和55年3月

高崎市教育委員会

高崎宿(広重)


城下町なので高崎宿に本陣、脇本陣はなかった。

 貞享2年(1685年)、貝原益軒は高崎宿の様子を書いている。

高崎の町屋千軒許。左の方に間部越前守殿城有。高崎の邊より信濃の淺間の嶽よくみゆる。高崎の南に高き岡あり。是によつて高崎と號するならん。其岡の後に舘と云村有。煙草を多く作るたてたばことて、當世の名物也。高崎の邊にも煙草多く作る。


 享和2年(1802年)4月4日、太田南畝は高崎宿の様子を書いている。

高崎の駅舎にぎはゝしく、江戸にかへりし心地ぞする。絹・太織・小間物・薬店などみゆ。 当国館山名(産)沼田たばことかける障子もあり。赤坂町に書肆あり。三河屋喜八といふ。 中山道にてはじめて書肆をみる。本町一町目より三町目にいたりて曲れば、左に前橋道三里といへる石のしるしたてり。田町をへて左に寺あり。連雀丁にも又寺有。右に田舎屋といへる本屋もみゆ。諏訪大明神の社はちいさき土蔵づくりなり。新町にも又寺あり。


 文化9年(1812年)8月15日、小林一茶は高崎宿に泊まっている。

 十五 晴 申下刻大白雨 高崎 ○

『七番日記』(文化9年8月)

白雨は、明るい空から降る雨。夕立。にわか雨。

 嘉永6年(1853年)5月21日、吉田松陰は江戸に行く途中、板鼻を経て高崎に入る。

板鼻を經て高崎に入る。高崎の前に川あり、高崎川と爲す。高崎は松平右京亮の都城なり。ここに至りて宿す。是の日過ぎし所、尤も多く黄蠶殻(きまゆ)を見る。行程十一里。


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