明和3年(1766年)10月29日、建部凉袋は例幣使街道玉村宿へ。 |
末の九日、玉村なる勇水(イサミ)・青賀(アヲホギ)等むかへて、其所に行く。道はいと近きほどなり。をばな折れかへりたるかたへに、おくつきのあるを見て、 なき跡のさゝやかなるは子にかあるらん |
11月25日、凉袋は伊勢崎から新町に向かう途中で玉村に立ち寄る。 |
廿五日、つとめて千山・百波かへるに、我はまた新町へと行わかれぬ、道のほとりなれは、玉村なる青賀をとふに居れり。勇水も来たれり。又あるじぶりするにあひて、未ばかりならむ、禹貢がりつく。 |
町指定史跡 |
玉村宿は、中山道倉賀野宿から分かれた例幣使街道の第一宿でした。木島家は、本陣として朝廷からつかわされる例幣使公務の役人が宿泊しました。元の建物は、慶応4年(1868年)の玉村宿大火で焼失してなく、屋敷内には、天保14年(1843年)帰路も中山道を辿った例幣使参議有長の歌碑[建立文久4年(1864年)4月17日]があり、当時の名残を物語っています。
玉村町教育委員会 |
天保十四年卯月例の |
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みてくらの使にかさねて |
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むかひける帰るさに |
玉むらのやどりにひらくたまくしげ |
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ふたたびきそのかへさややすらに |
参議有長 |