2021年福 岡

長崎街道〜内野宿〜
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羽田空港


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鹿児島本線原田(はるだ)駅から筑豊本線筑前内野駅へ。


 福岡藩内の黒崎木屋瀬、飯塚、内野、山家、原田の各宿は、筑前六宿とよばれ、大変な賑わいをみせたそうだ。

小倉屋


質屋でした。現在の建物は、明治時代前半のものです。

江戸時代の宿場の面影を
   今に残す長崎街道・内野宿

 長崎街道・筑前六宿の一つ内野宿は、その建設について福岡藩記録に「慶長17年(1612年)毛利但馬被命内野被建」とある。毛利但馬は日本一の槍を飲みとった黒田武士で有名な母里但馬で黒田公の命で代官として内野宿建設に当たった。但馬が大隈城主となった後、内野太郎左衛門がその任にあたった。内野氏が軽輩ながら、かかる藩の大事業に起用されたのは長政公の厚い信任を受けていたからにほかならない。

 現在、内野宿は国道200号線から外れており、江戸時代そのままに道が残り僅かに宿場の面影をとどめている。西構口(山家宿側)から東構口(飯塚宿側)まで約600メートルあり、そのほぼ中央で逆T字に本陣(御茶屋)へ道は向かっている。本陣の脇を通って道は太宰府へと続いていた。飯塚宿へ3里7丁、山家宿へ2里20丁。山家宿との間に難所中の難所「冷水峠」がある。大名の参勤交代、オランダ商館長、長崎奉行、幕府高官等の往来など交通煩雑で宿場として非常に栄えていた。シーボルト、ケンペルの江戸参府記や伊能忠敬吉田松陰等の日記にその記録が残っている。福岡藩歴代の藩主は度々内野宿を本拠にして狩りをしていたという。内野宿については百数十戸が消失するという大火が何度となくあり、古い資料がほとんど残っていない。

「長崎屋」


町茶屋(脇本陣・下の茶屋)であったと言われ、シーボルトが休憩との伝承が残されている。現在の建物は明治末期の建築である。

「長崎屋」の庭


 嘉永3年(1850年)8月30日、吉田松陰は長崎遊学の途中で内野に泊まる。

飯塚を經て内野に宿す。内野は寂寥の山驛にして、海遠く山深し。其の故にや、二里許りの所迄出でて客を延く者あり。黒崎より木屋瀬へ三里、木屋瀬より飯塚へ五里、飯塚より内野へ三里。凡そ十一里にして宿す。秋日馬上。其の道たる、木屋瀬川と或は沿ひ、或は離れ、或は渉り、内野に至りて未だ河源を極めず。蓋し河源より河口に至る迄十五里と云ふ。此の間多く秋粟を植う、挿秧後に飢ゑて、西成時に穫ると云ふ。秋の彼岸櫻多し、花開きて枝に滿つ。。


ちちははの碑


シーボルト參府の驛みづみづしき

石楠花の咲きしちちははの家

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鹿児島本線原田(はるだ)


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