大正6年(1917年)、吉岡禅寺洞は清原枴童と共に高浜虚子を福岡に招き太宰府に同道、虚子が詠んだ「天の川の下に天智天皇と臣虚子と」に因み、翌年に清原枴童らと「天の川」を創刊、のち主宰。 昭和2年(1927年)、吉岡禅寺洞は九州俳壇で初めて『ホトトギス』同人になる。 |
この3つの句は禅寺洞が67歳のとき2月5日 95歳で逝かれた 菜づくりの上手であったという ずっしり重い年輪の母の遺骨を抱いて その遺骨のかるさに泣きながら一光寺山門に入り ひさびさとまだ芽を出さないでいる大樹の銀杏の下に立ち 少年の日 よくこの境内で角力をして遊んでいたころのわらべごころにかえり「母を葬る」の句として句帳にしるしとどめたものである 禅寺洞はこの寺の山門からすぐ北に見える九州大学の柵内の南端のところに吉岡家があって そこで明治22年7月2日 父真道 母ヤスの長男として生れ 本名を善次郎と呼び 15歳になるまで祖父母とともにその家に住んでいたという 16歳になって祖父母の許を離れ 今泉の父母の家に移り 農墾のかたわら「ホトトギス」の読者となり さらに同人となり 主宰者高浜虚子と肩を並べるほどに俳壇に名声を拍するに至ったが 大正7年 30歳にして「天の川」を創刊し 鋭意 口語俳句への革新を目ざし 昭和33年 古希となりて漸く「口語俳句協会」を結成するに及び「ホトトギス」派からは完全に一線を劃して 日本俳句史上 稀に見る口語俳句の新俳壇の偉業を達成したのであった その句の全作品は 禅寺洞没後七回忌に「天の川」同人により 銀漢312句 新墾853句 天気図573句 総じて1738句を「定本吉岡禅寺洞句集」に収録され その俳句論40篇と古典研究7篇と随想録46篇と旅行記4篇等は 禅寺洞没後十三回忌の前年12月1日 「天の川」同人により「吉岡禅寺洞文集」として刊行された |
まっしろき 蝶 ひとつゐて 「時」をはむ
昭和12.6.10「時の記念日」より
土古く渡来の鶴をあるかしむ
昭和16.1.30「阿久根の鶴」より
ここにきて 彼岸の入日 額にうける
昭和28.3.21天草栖本円性寺にての句 |
この3つの句は 禅寺洞終焉の前年 禅寺洞は肺性心不全で「天の川」の高弟 永海兼人を主治医として自宅療養中 9月3日 シマ夫人にさきだたれ その忌明の日に勝屋ひろを片山花御史等の「天の川」同人の会座する亡妻の霊前にて自ら墨したものである 従って この句は禅寺洞の全作品のなかで特に重要な句であることを意味して自選したものとみるべきであろう まっしろき蝶はいつの時代の芸術家にとっても時空を越えて没我している姿とおなじであり渡来の鶴は先人の踏む以外の地にはなかなかにして踏み込めぬものと點描し 口語俳句の創始者の苦難などについてはよそごとの如く これを新墾の芸術家に言問うまでもなく 世のもろもろの生業者へ純潔と決断の勇猛心を寄せた禅寺洞の辞世の句ともとってよいであろう あとの彼岸の句は文学の理念とは全く関係のない浄土衆徒としての信奉精神の發露で 天草の海の金色にかがやく彼岸の日想観に浴したときの歓びの句を淑妻の霊前に額づきながら ねがわくば春の彼岸にはわれをまねき給えと祈るがごとくに選句したのではなかったろうか 禅寺洞は奇しくも この選句の翌年の3月17日 享年73歳をもって 彼岸の入日の前日に命終したのであった
昭和53年3月吉日 一光寺 第三十二世 光誉文雄 識 |
冬木の |
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木ずれの音 |
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誰もきて |
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いない |
この句は、禅寺洞終焉の5日前に門人、片山花御史のもとめに応じたもので、高弟 永海兼人、勝屋ひろを、の3人により碑句として選ばれたものである 昭和53年12月6日
一光寺住職田中文雄発之 |