古歌碑



阿倍仲麻呂

大正14年(1925年)、会津八一は春日大社を訪れている。

   春日神社にて

みかぐら の まひ のいとま を たち いでて

もみぢ にあそぶ わかみや の こら


春日大社の参道に阿倍仲麻呂の歌碑があった。


   遣唐留学生阿倍仲麻呂公
         喜びも やがて悲しき望郷の歌
天の原 ふりさけ見れば
   春日なる 御蓋の山に
       いでし月かも

『小倉百人一首』の歌で知られている。

平成27年(2015年)2月19日、奉納。

阿倍仲麻呂公 望郷の想い

 遣唐留学生に選ばれた阿倍仲麻呂公(数え年17歳)と吉備真備公(20歳晩年右大臣)たちは、ここ春日の神地で壯行神事を受けて出発、課程履修後は仲麻呂公のみ乞われて唐朝廷に入り、要職を歴任したのでした。

 33歳時の帰国願いは玄宗皇帝に許されず、53歳の時ようやく一時帰国を認められ、蘇州出港前夜停泊中の船内で詠んだのがこの歌です。喜びに満ちあふれております。

 ところが乗船は難破して安南(ベトナム)に漂着、辛うじて唐首都長安(西安市)に戻ったものの、遂に帰国の夢むなしく70歳で亡くなりました。この歌は、故国日本をしのび続けた悲しみの歌になってしまいました。

 後に仲麻呂公には祖国貢献の功労に報い、右大臣相応の正二位が追贈されております。

奈良大学教授 上野誠説参考 奉納者文責

 二十日の夜の月出でにけり。山の端もなくて、海の中よりぞ出でくる。かうやうなるを見てや、むかし、阿倍仲麻呂といひける人は、唐土に渡りて、帰り来ける時に、船に乗るべき所にて、かの国人、馬のはなむけし、わかれ惜みて、かしこの漢詩作りなどしける。飽かずやありけむ、二十日の夜の月出づるまでぞありける。その月は海よりぞ出でける。これを見てぞ仲麻呂の主、「我が国にはかかる歌をなむ神代より神も詠ん給び、今は上中下の人も、かうやうに別れ惜しみ、喜びもあり、悲しみもある時には詠む」とて、詠めりける歌、

   青海原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも

とぞ詠めりける。かの国の人、聞き知るまじく思ほえたれども、言の心を男文字に、様を書き出して、ここのことば伝へたる人に言ひ知らせければ、心をや聞き得たりけむ、いと思ひの外になむ愛でける。唐土とこの国とは、言異なるものなれど、月の影は同じことなるべければ、人の心も同じことにやあらむ。さて、今、そのかみを思ひやりて、ある人の詠める歌、

   都にて山の端に見し月なれど波より出でて波にこそ入れ

『土佐日記』

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