島木赤彦ゆかりの地
島木赤彦住居跡〜柿陰山房〜
赤彦は明治30年久保田家の養嗣子となり、大正15年3月死去迄この家を根拠に生活したが、大正7年東京のアララギ発行所から帰郷以来ここで起居、自ら「柿陰山房」と命名した。間口8間半、奥行5間半、氏族の家造りとしても評価が高い。 書斎は西向き8畳の上座敷であったが、冬は寒く夏は暑かったので、大正14年東南の一部に日当りのよい書斎を新築した。庭の赤松は樹齢300余年、目通周2米、又門口の胡桃は樹齢130年余、共に赤彦の特に愛惜した老木である。 なお津島神社前に歌碑、裏山に赤彦と夫人不二子の墓がある。 |
下諏訪町教育委員会
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高城村(赤彦の家) 蕪など干して君が亡き家かや 枯草に墓路のあるとなく墓の見えて 其木の赤き實こぼれおくつきどころ くぬぎ山も枯れてあたたかし山は |