下 町〜北 区〜

清水坂公園〜正岡子規赤羽根土筆摘み歌句碑〜


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正岡子規は慶応3年(1867年)9月17日、現在の愛媛県松山市に生まれました。明治29年(1896年)10月から明治35年9月19日に根岸の自宅(子規庵:台東区根岸2−5−11・都指定史跡)で没するまで、永い病床生活を送りました。 根岸で病の床にあった時期は「歌よみに与ふる書」の発表によって、写生と「万葉集」の精神を取り入れた短歌の革新を提唱するとともに、俳句においては、松尾芭蕉への盲目的な崇拝を批判し、与謝蕪村の発見・評価をおこなった点でも広く知られています。 ここに刻まれた13首の短歌と2句の俳句は、子規は病床で愛用した雑記帳「仰臥漫録」にあるものです。 妹の律は、子規の看病に明け暮れましたが、近くに引っ越してきた河東碧梧桐と彼の家族に誘われ、赤羽根の土筆摘みに訪れます。律は帰宅すると枕元で土筆の袴をとりながら、嬉しそうに赤羽根での様子を子規に話しました。これらの歌は、そんな律の様子を見て詠まれたものです。 子規は、この13首の草稿から7・8・11首目を除いて10首を選択し、これに推敲をかさね、明治35年4月4日の「日本」新聞紙上に竹の里人の名で発表しています。 |
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つくしほど食ふてうまきはなく つくしとりほどして面白きはなし 碧梧桐赤羽根村に遊びてつくしを得て歸る 再び行かんといふに思いやり興じてよめる
竹の里人 |
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赤羽根のつゝみに生ふるつくづくしのびにけらしも摘む人なしに 赤羽根の茅葺の中のつくづくしおいほうけたりはむ馬なしに 赤羽根に摘み残したるつくづくし再び往かん老い朽ちぬまに 赤羽根のつゝみにみつるつくづくし我妹と二人摘めど盡きなくに つくづくししゞじに生ひける赤羽根にいざ往きて摘め道しるべせな 赤羽根の汽車行く路のつくづくし又來む年も往きて摘まなむ つくづくし摘みて歸りぬ煮てや食はんひしほと酢とにひてゝや食はん つくづくし長き短きそれもかも老いし老いざる何もかもうまき つくづくし故郷の野に摘みし事を思ひ出でけり異國にして 女らの割籠たづさへつくづくし摘みにと出る春したのしも また、ここに刻まれた俳句は、律の土筆摘みについて、子規が病床で書き留めた草稿です。子規は、この句を推敲して明治35年5月20日付「ほととぎす」の「病床苦語」のなかに載せています。 家を出でて土筆摘むのも何年目 病床を三里はなれて土筆取 なお、子規は、東京都北区田端4ノ18ノ4 和光山興源院大龍寺の墓地に葬られています。 |

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豊かな21世紀への道を求めて人々が向かい合い、対話し、理解しあう姿を表しています。 清潔感と安定感のある色調で、この作品の「優しさ」と「力強さ」を陶の持つ素材の和らかさ、存在感とともに表現しています。 形、色、素材が融合し、見る角度、光の加減により様々な表現を見ることが出来ます。 |
