江戸が開府され20年ほど過ぎ、現在の人形町交差点北側一帯には江戸唯一の歓楽街が在り大変な賑わいでした。大芝居の中村座と市村座の江戸二座では歌舞伎が上演され、また人形操り芝居、浄瑠璃芝居、見世物小屋が軒を並べ、それに携わる多くの人形師達がこの町に住んでいたことから、江戸時代より俗に「人形丁通り」と呼ばれ後に町名となりました。正式に「人形町」という町名がついたのは関東大震災以降の区画整理で昭和8年になってからです。 |
“玉秀”にこの午ときや年の暮
『藻花集』 |
谷崎潤一郎(1886〜1965)は、明治19年7月24日、この地にあった祖父経営の谷崎活版所で生まれました。 同25年、阪本尋常高等小学校に入学しました。その後、父の事業の失敗により、近くを転々としました。若くして文筆にすぐれ、東京帝国大学国文科を家庭の事情で中退したのち、第二次『新思潮』の同人となり、『刺青(しせい)』、『少年』など耽美と背徳の世界を華麗に描いて、文芸界で名を成しました。 のち、日本的な伝統美に傾倒し、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『細雪』、『少将滋幹の母』などを遺しています。その間、昭和12年、芸術院全員に推され、同24年には文化勲章を受章しました。
中央区教育委員会 |
江戸幕府の銀貨鋳造所として設立された「銀座」は、慶長17年(1612年)に駿府(現在の静岡県葵区両替町)に置いた銀座を閉鎖して、その機能を江戸へと移しました。江戸の銀座は、京橋南の町屋敷が鋳造方の長・大黒常是吹所(鋳造所・役所)と座人の居宅としてあてられました。なお、常是の拝領屋敷は、新両替町二丁目(現在の銀座2丁目)にあり、当地において通用銀貨類の鋳造と検査が行われました。 その後、寛政12年(1800年)に座人の粛清が行われて一時廃絶(江戸大黒家は断絶)の憂き目に遭いましたが、代わって京都銀座の大黒家が江戸に下り、幕府から播磨国姫路藩酒井家屋敷の上地(元大坂町〈現在の日本橋人形町1丁目4番・19番〉の南)を拝領して銀座役所を再興しました。 再興した銀座役所の敷地にあたる当該地は、古くから蛎殻町の俗称があったことから、この銀座は「蛎殻銀座」と呼ばれました。その後は、明治2年(1869年)に明治政府の造幣局が新設されるまで約70年存続しました。
中央区教育委員会 |
江戸時代の町火消し「いろは47組」のなかで人形町界隈を担当したのは「は組」でした。 当時の衣装などを再現した人形が「梯子(はしご)乗り」や「纏(まとい)上げ」を披露します。 流れる唄はとび職人が祭りなどで唄う「木遣り(きやり)」です。 (社)江戸消防記念会第一区八番「は組」の方々に資料や助言の協力を頂きました。 |