2010年宮 城

東北大学医学部附属病院〜木下杢太郎〜
indexにもどる

仙台市青葉区星陵町に東北大学医学部附属病院がある。


東北大学医学部附属病院の旧正門が復元されている。


旧正門の由来

 東北大学医学部附属病院の前身である県立宮城病院が明治44年3月に竣工し煉瓦作りの門柱4基の並ぶ所が正面入り口であった。

 80年にもならんとする星霜に耐え乍らも老朽化が避けられない。貴重な歴史的建造物としてここに創建当時のままに復元された。

 この塩焼き煉瓦は建設当時の現物である。

 平成2年3月

東北大学艮陵同窓会

医学部附属病院に木下杢太郎の詩碑があった。


むかしの仲間も遠く去れば、また日頃顔合せねば、知らぬ昔とかはりなき、はかなさよ.。春になれば、草の雨。 三月、すかんぽの花くれなゐ。また五月にはかきつばた。花とりどり、人ちりぢりの眺め。窓の外の入日雲。

木下杢太郎

 大正2年(1913年)4月、県立宮城病院は東北帝国大学医学専門部附属病院と改称。

 大正8年(1919年)4月、東北帝国大学医学部附属病院と改称。

 太田正雄先生は大正15年から昭和12年まで東北大学医学部皮膚科担当の教授であった。また太田先生は、木下杢太郎の筆名で明治・大正・昭和にわたり、詩・小説・戯曲・キリシタン研究などにおいても幾多の業績をあげられ、高名である。

 この碑の詩は木下杢太郎28才のときの作であり、60才のときに書かれた自筆の文字で刻まれている。

 昭和58年5月

東北大学医学部同窓会

 昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、仙台の木下杢太郎を訪れている。

 小春日和の仙臺で、二人のしるべをたづねる、一人は大學病院の杢太郎博士、それと連れ立つて他の一人の小宮氏を訪ふ、


2010年宮 城に戻る