江戸時代、「御城内」とよばれていた内堀の内側の地域をまとめて昭和11年(1936年)につけられた地名。藩政初期の高知城内には、家老野中兼山の屋敷があった、昭和の初め、蛇行していた江ノ口川が直線化され、町域内に住宅地が増えた。本丸の南下には、西に藩主の下屋敷、東に藩主用馬場、追手門東には藩祖山内一豊夫妻を祀る「藤並神社」があった。 |
花物語 寺田虎彦 いくつ位の時であったかたしかには覚えぬが、自分が小さい時の事である。宅の前を流れてゐる濁った堀川に沿うて半町位い上ると川は左に折れて舊城の裾の茂みに分け入る。その城に向うたこちらの岸に廣い空地があつた。維新前には藩の調練場であつたのが、其の頃は縣廳の所属になつたまゝで荒れ地になってゐた。一面の砂地に雜草が所まだらに生ひ茂り處々畫顔が咲いてゐた。
「畫顔」より |
思ひ出はおれを故郷へ運ぶ 白頭の嶺を越え、落葉から松の林を越え 蘆の根の黒く凍る沼のかなた 赭ちゃけた地肌に黝ずんだ小舎の続くところ 高麗雉子が谷に啼く咸鏡の村よ 雪溶けの小径を踏んで チゲを負ひ、枯葉を集めに 姉と登った裏山の楢林よ 山番に追はれて石ころ道を駆け下りるふたりの肩に 背負(しょひ)繩はいかにきびしく食ひ入ったか ひびわれたふたりの足に 吹く風はいかに血ごりを凍らせたか
(冒頭の一節より)
槇村浩 1932年2月の作 |
革命詩人槇村浩、1912年高知県高知市生まれ。本名吉豊道。「間島(かんとう)パルチザンの歌」その他反戦詩によって中国侵略戦争を鋭く告発。1932年に捕えられて高知刑務所に入獄するが、天皇制特高警察の野蛮な拷問がもとで1938年わずか26歳で病没した。 |
逝いて還らぬ教え児よ 私の手は血まみれだ 君を縊(くび)ったその綱の 端を私も持っていた しかも人の子の師の名において 嗚呼! 「お互いにだまされていた」の言訳が なんでできよう 慚愧悔恨懺悔を重ねても それが何の償いになろう 逝った君はもう還らない 今ぞ私は汚濁の手をすすぎ 涙をはらって 君の墓標に誓う 「繰り返さぬぞ絶対に!」
竹本源治詩 |
平成2年(1990年)6月9日、高知県管理職教員組合(高管教)結成25周年記念に建立。 |
竹本源治先生畧年譜 1919年、五川郡池川町に生まれる。 1944年、教職に就く。 1952年、第二次大戦の惨禍を悼み、高知県教組機関誌『るねさんす』に「戦死せる教え児よ」を発表。 1953年、ウィーンの第一回世界教員会議で朗読され、深い感動を与えたという。 1980年、没。 |
日本は日清戦争以来、中国に対し侵略行為を続け、特に1931年の「満州事変」後、15年間に及ぶ戦争は人道をおかす三光作戦などによって1千万人余の中国人民を殺傷した。この碑は日中国交回復20週年にあたり侵略戦争に対する反省の証として、またゆるぎない友好と平和の礎とするため建立された。 |