2024年山 形

豊烈神社〜水野三郎右衛門元宣像〜
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山形市桜町に豊烈(とよれつ)神社がある。


 文政4年(1821年)9月、遠江国浜松城主水野忠邦公、藩祖水野忠元公を城内に祀りしに始まり、朝廷より豊烈霊神の称号を賜わる。

 弘化5年(1848年)10月、忠邦の子忠精公、出羽国山形移封により霞ヶ城二の丸内に遷座す。

城代家老
水野三郎右衛門元宣


水野三郎右衛門元宣像の記

 水野三郎右衛門元宣(もとのぶ)は、天保14年(1843年)、遠州浜松に生れ藩主のお国替えにより弘化3年(1846年)、4才のとき山形に移住し、22才の若さで家老職を継いだ。文武両道にすぐれ家中藩士の信頼を一身に集めた。明治維新の政変の際、藩主は京都に居って不在のため、藩の運命は弱冠26才の首席家老元宣の双肩にかかっていた。慶応4年春、薩長軍(官軍)は仙台から山形に進入し、山形藩は官軍の命を受けて庄内征伐のため長崎口まで進撃したが、庄内軍の不意の襲撃に合い損害を受けて敗走、戦火は山形市街地の目前に迫った。元宣は領民を救うため苦心惨憺身を挺して奔走し、山形市民を兵火の災害から救った。

 山形藩は当初官軍についたが、薩長軍の参謀世良修蔵の横暴さに憤慨した仙台、米沢の両藩の呼びかけに応じ、東北各藩とともに奥羽同盟を結成し官軍に反抗することとなった。しかし間もなく各藩相ついで降伏することとなり、新政府から反逆の罪に問われた際、元宣は「山形藩の責任はすべて自分一人にあり、他の者には寛容の御処置を」との嘆願書を提出し、他に犠牲者を出さないよう努力した。翌明治2年(1869年)5月20日藩の責任を一身に負い27才を最期に長源寺庭において刑死した。

 明治維新当時の山形藩は五万石であったが財政は苦しく充分な武器の備えもない状況の中で官軍と隣接大藩との板ばさみにあい山形藩をいかに保全するか元宣の苦悩は大変なものであった。明治維新改革後山形市が米沢・新庄の大藩をさしおいて県庁所在地となり今日の繁栄あるのは元宣が身をもって難に殉じ、山形の街を兵火の荒廃から救ったためであり、まさに山形市民の大恩人と称すべきである。

 元宣の遺徳を後世に伝えるため旧藩士を始め市民有志により明治34年(1901年)銅像を建立したが昭和18年(1943年)第二次世界大戦完遂のため供出されたので昭和21年(1946年)に郷土の彫刻家服部午山の作による現在の塑像を再建したのである。

最上義光歴史館へ。

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