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尾崎紅葉の代表作『金色夜叉』は明治30年から35年まで断続的に読売新聞に連載されたが、紅葉死去のため未完に終わっている。 紅葉は明治32年6月9日から3泊4日で塩原を訪ね、名所旧跡を始め食事の内容までこと細かに書き留め、後に「塩原紀行」と題して発表されている。 碑文は、明治33年12月に書き継いだ『続々金色夜叉』の始めの部分で、特に銘文として名高く、言葉をつくして塩原の風景を賞賛している。 この碑は、塩原の名を全国に広めた紅葉の功績を記念して、塩原温泉の入口であるこの地に建立されたものです。 【尾崎紅葉】 1867年(慶応3)〜1903年(明治36)、本名、徳太郎。 慶応3年生まれは幸田露伴、夏目漱石と同じである。幸田露伴は昭和22年82歳で没す。尾崎紅葉は36歳で亡くなっているわけだ。 江戸生まれ。明治18年「硯友社」という近代文学最初の文学結社を結成、機関誌の第1号「我楽多文庫」を発行。明治22年帝国大学在籍のまま読売新聞に入社、代表作を次々と発表。「三人比丘尼色懺悔」「多情多恨」「金色夜叉」など。 |

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塩原軌道は明治45年(1912年)7月8日に西那須野〜関谷間が開通し、大正4年10月、新塩原駅(現在の入勝橋付近か)まで延長された。 大正2年(1913年)6月15日、東洋大学の創設者井上円了は塩原温泉を訪れ、「塩原紀行」に「西那須野より関谷村まで3里の間、近ごろ軽便鉄道を敷設し、機動車野の往復あり。」と書いている。 大正10年(1921年)、塩那電気(株)から電力の供給を受け、大正10年〜新塩原間が電化され、会社名も「塩原軌道株式会社」から「塩原電気株式会社」と改称された。 翌、大正11年(1922年)4月には、塩原口(現在のがま石園地)まで延長、花電車が運行され開通を祝った。 |



