現在では幅の広い道となっていますが、かつては行き交う人の袖と袖が摺れるほど狭かったことから名付けられました。 明治時代、付近には作曲家の滝廉太郎や小説家・詩人の国木田独歩などが住んでいました。 |
東京都指定旧跡 作曲家の滝廉太郎(1896〜1903)は、明治27年(1894年)頃から明治34年(1901年)にかけてこの付近に居住していました。 滝廉太郎は東京に生まれた後、父の転勤のため大分で幼少期を過ごしましたが、高等小学校卒業後に上京、東京高等師範学校付属音楽学校(後の東京音楽学校、(現在の東京藝術大学)に入学しました。優秀な成績で卒業した後、研究科を経て母校で後進の指導にあたりました。 「花」、「荒城の月」、「箱根八里」、「お正月」、「鳩ぽっぽ」など現在まで語り継がれる数々の名曲を発表し、当時から高く評価されました。 1901年からドイツのライプツィヒ王立音楽院に留学しましたが、肺の病にかかって帰国し、大分市稲荷町の自宅で明治36年(1903年)に死去しました。 滝廉太郎が一番町に暮らしていたことを偲び、毎年秋に地元町会の主催で「滝廉太郎を偲ぶ会」がこの場所で開催されています。 |