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江戸川の下流にして、湯島聖堂の下を東へ流れ大川に入る。明暦より万治の頃に至り、仙台侯、台命を奉じ湯島の台を掘割り、小石川の水を初めてこゝに落さるゝと云ひ伝ふるは少しく誤るに似たり。古老の説に、慶長年間、駿河台の地闢(ひら)けし時に至り、水府公の藩邸の前の掘を、浅草川へ掘りつゞけられ、その土を以つて土堤を築き、内外の隔(へだて)となし給ふと云ふ。この説しかるべきに似たり。(按ずるに、昔は舟の通路もなかりしを仙台侯、命をうけたまはられし頃掘り広げ、今の如く舟の通路を開かれたりしなるべし。)
『江戸名所図会』(神田川) |

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聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげられたり。 神田川掘割の時ふちになりて水際に形残る。享保十四年、江戸川拡張の後川幅を広げられし時、川の中になりて今その形もなし。
「再校江戸砂子」より
慶長の昔、この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった。 ある時、寺の庭より良い水がわき出るので将軍秀忠公に差し上げたところ、お茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた。それから毎日この水を差し上げる様になり この寺をお茶の水高林寺と呼ばれ、この辺りをお茶の水と云うようになった。 其の後、茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地となった。時代の変遷と共に失われ行くその風景を惜しみ、心ある人たちがこの碑を建てた。 |
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坂内熊治 高林寺 田中良彰 |
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昔は神田の台と云ふ。この所より富士峰を望むに掌上に視るが如し。故に、この名ありといへり(一説に、昔、駿府御城御在番の衆に賜はりし地なる故に、号とすといへども、証としがたし。) |

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高台である「駿河台」は元来、本郷・湯島台と地続きで、その南端に位置し、「神田山」と呼ばれていました。
江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。しかし、埋め立てによって、それまで海に流れ込んでいた平川(神田川のもとになった川)の流れがとどこおり、下流で洪水が頻発するようになりました。そこで現在の飯田橋付近から隅田川まで、分流としての水路を確保し、あわせて江戸城の外堀の役目も果たす「神田川」が開削されたのです。こうしてこの界隈は、本郷・湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。 さて、家康が駿府で没した後、家康付を解かれ、駿河から帰ってきた旗本(駿河衆)たちが、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多く屋敷を構えました。駿河衆が住んでいたことや駿河国の富士山が見えたことなどから、この地は駿河台と呼ばれるようになり、多くの武家屋敷が立ち並ぶ地域となりました。 江戸時代初期には、奈良奉行を勤めた旗本中坊(なかのぼう)長兵衛、また、幕末には勘定奉行や軍艦奉行を勤めた小栗上野介忠順(ただまさ)などが居住していました。明治になると、武家屋敷の跡地が華族や官僚などの屋敷に変わり、加藤高明男爵邸、坊城俊長伯爵邸、小松官邸などいくつかの邸宅は昭和の初期まで残っていました。 明治5年(1872年)に新たに定められたこの地域の町名は、駿河台西紅梅町、駿河台北甲賀町、駿河台南甲賀町、駿河台袋町、駿河台鈴木町(いずれも神田区)でした。関東大震災後の区画整理が終わった昭和8年(1933年)に現在の駿河台一丁目、駿河台二丁目に町名が変更され、昭和22年(1947年)に千代田区となってからもこの地名で親しまれています。 |
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享和3年(1803年)11月3日、小林一茶は駿河台へ。 |
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三日 晴 駿河台ニ入
『享和句帖』(享和3年11月) |
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文化元年(1804年)8月5日、一茶は再び駿河台へ。 |
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五日 晴 駿河台ニ入 吹かけ雨
『文化句帖』(文化元年8月) |
