2025年東 京


奏でる乙女像〜六本木交差点〜

東京メトロ日比谷線「六本木」駅下車。

六本木交差点に「奏でる乙女」の像があった。


昭和29年(1954年)4月、混凝土(コンクリート)で建立。本郷新制作。

昭和55年(1980年)5月9日、第1回六本木祭の開催を記念して青銅像として再建。

左側から
   
右側から
   
右側面

   

   


 その昔、緑深い武藏野の東南に年経た6株の松が聳える小高い丘があった。その松はどこからでも見えたので、いつとはなしに人々はこの土地を六本木と呼び慣れ、それがそのまま地名になったと云い伝えられる。もとはわびしい叢に道行く人も稀であったが、寛永年間、佛寺5院が創立されると、その門前に商家も集い、やがては瓦もいかめしい大名屋敷が立ち並ぶようになった。延宝から大正迄幾度となく行なった道路拡張で交通が便利になると、このあたり一帯は人馬の通いも繁くなり、おのずから賑わいを増していった。そして明治の代、隣地に兵営が置かれるに及んで土地の繁栄は一層めざましくみなぎる活氣のうちに昭和に入ると、山の手でも指折りの盛区に数えられるようになった。だが一方、昔ながらの静かな趣はガス燈の青いかげにも残り六本木・三河台両町には都内でも有数な高級住宅が営まれて華やかな商店街と映り合い色彩ゆたかな町としての誇りを見せていた。

 昭和20年5月22日、太平洋戦争災禍はこの町をも見舞い美しい街並も樹も一夜のうちに灰燼に帰したが翌21年戦災都市復興計画は、焼け朽ちた郷土をいたみその再建を夢見る町民の進んで協力するところとなりその熱意は麻布第一復興土地区劃整理組合の結成となってあらわれた。そして、子安英男を組合長として昭和22年6月より事業を開始したが当初は終戦直後の混乱期に当り町民の生活もゆらぎ勝ちで百年の大計を樹てようとする区劃整理は遅々として進まなかった。しかし幸に関係者の撓ゆまぬ努力と理解ある町民の力強い援助によって苦しみを超えて歩んだ7年の歳月の流れは今こゝにようやくその事業の完成をもたらしたのである。

 この記念に、平和と協力とを象徴する本郷新氏の労作を請い得てこれを街角に見る喜びと共にそのさゝやかな歴史を併せて記し、後の世の人に伝える次第である。

麻布第一復興土地区劃整理組合

昭和55年(1980年)2月13日、本郷新は74歳で没。

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