2021年東 京

穴八幡宮〜高田馬場の流鏑馬〜
indexにもどる

新宿区西早稲田二丁目の高台に穴八幡宮がある。

穴八幡宮御由緒

《御祭神》應神天皇・仲哀天皇・神功皇后

 康平5年(1062年)奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が凱旋の折り、日本武尊命の先蹤にならってこの地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧請し、永く東北鎮護の社として祀られました。

 ェ永18年(1641年)宮守の庵を造るために南側の山裾を切り開いたところ神穴が出現し、この時期から穴八幡宮と唱えられるようになりました。同年この地に居住していた幕府の祐筆大橋龍慶が方百間の地を献じ、社殿を壮大に造営しました。この頃神木の松から瑞光を放ち、色々奇瑞のあったことが、三代家光将軍の上聞に達し、当社を江戸城北の総鎮護として総営繕を命ぜられました。

 慶安元年 (1648年)社殿再興の折りに暮府から氏子として牛込郷三十六ヶ町が定められ、翌年の慶安2年(1649年)社殿を始め数々の殿舎が竣工し、8800余坪の境内地に壮麗な建物が櫛比して将軍家祈願所としての規模も整い、以後江戸屈指の大社として重んぜられました。その後も幕府により数次にわたって、造営、営繕が行われましたが、特に元禄16年1703年)の造営は、江戸権現造り社殿として壮麗を極めました。

 安政元年(1854年)青山火事のため類焼し、幕府より造営料などが奉納されましたが、幕末の多事と物価高騰のため、仮社殿のまま明治維新を迎えました。その後昭和初年に旧時の盛観に復しましたが、今次大戦により社殿はことごとく罹災しました。しかし戦後はいち早く仮社殿により再興し、その後崇敬者の御芳志等により平成元年から慶安、元禄の江戸権現造の当社建設絵図を基に御本殿御社殿の造営をはじめ、平成10年の随神門竣工をもちまして往時を偲ぶ姿に復し、引き続きその他の再建、また境内地の整備に着手し今日に至っています。

ェ永時代の図(江戸名所図会より)


牛込の総鎮守にして高田にあり。(世に穴八幡とよべり。)この地を戸塚と云ふ。別当は真言宗にして光松山放生会寺と号す。(旧称は威盛院中之坊と唱へしとなり。祭礼は八月十五日にて、放生会あり。旅所は牛込神楽坂の中腹にあり)。

社記に云く、寛永十三年丙子、御弓隊(ぐみ)の長(をさ)松平新五左衛門源直次に与力の輩(ともがら)、射術練習のためこの地に的山(まとやま)を築き立てらる。八幡宮は源家の宗廟にして、しかも弓箭(ゆみや)の守護神なればとて、この地に勧請せん事を謀る。この山に素より古松二株あり。その頃山鳩来つて日々にこの松上に遊ぶを以つて霊瑞とし、仮に八幡大神の小祠(こみや)を営みて、件の松樹を神木とす。(南昔は松樹繁茂せし山林にて、その中に一株の松あり。暗夜には折として瑞光を現ず。故にこの樹を称して光り松と云ふとぞ。また寛永十三年、始めて当社八幡宮勧請の頃、この樹上に山鳩来り遊びしと、云々。)

穴八幡宮神事


高田馬場 流鏑馬射手

新宿区指定無形民俗文化財

高田馬場の流鏑馬

 享保13年(1728年)、徳川八代将軍吉宗が世嗣の疱瘡平癒祈願のため、穴八幡宮へ奉納した流鏑馬を起源とし、以降将軍家の厄除けや若宮誕生の祝いに高田馬場(現在の西早稲田3丁目付近)で流鏑馬が奉納された。

 明治維新以降中絶し、高田馬場も廃されたが、昭和9年に皇太子殿下御誕生奉祝のため、穴八幡宮境内にて再興された。戦前、数回行われたが、戦争のため中断された。

 昭和39年、古式流鏑馬を保存するため、現在地に移転した水稲荷神社境内にて復活。昭和54年からは都立戸山公園内に会場を移し、毎年体育の日に行われている。

 古式豊かで勇壮な高田馬場の流鏑馬は穴八幡宮の神事として現代に伝えられる貴重な伝統行事である。

新宿区教育委員会

随神門


御社殿


2021年東 京〜に戻る