夏目漱石の句碑
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風に聞け何れが先に散る木の葉

 明治43年(1910年)8月6日、夏目漱石は門下生松根東洋城の案内で修善寺温泉の菊屋旅館(別荘)を訪れた。8月24日、漱石は大量吐血して人事不省の危篤状態に陥る。

いわゆる「修善寺の大患」である。

 家を流し崖を崩す凄まじい雨と水の中に都のものは幾万となく恐るべき叫び声を揚げた。同じ雨と同じ水の中に余と関係の深い二人は身をもって免れた。そうして余は毫も二人の災難を知らずに、遠い温泉(でゆ)の村に雲と煙と、雨の糸を眺め暮していた。そうして二人の安全であるという報知(しらせ)が着いたときは、余の病がしだいしだいに危険の方へ進んで行った時であった。

   風に聞け何れか先に散る木の葉

『思い出す事など』(十一)

 砥部町五本松の県道53号大平砥部線沿いに漱石と東洋城二句一基の句碑があった。


風に聞け何れが先に散る木の葉
   漱石

いつくしめば叱るときける寒さかな
   東洋城

平成15年(2003年)11月、砥部に句碑を建てる会建立。

陶板製の説明板があった。

 漱石は明治43年に修善寺で病に倒れ、「則天去私」の人生観を得るとともに、俳句にもすぐれた境涯の句を残し、この「風に聞け」の句は、この頃のもの。随筆「思い出す事ども」にある。

 この漱石に俳句を続けさせたのが松根東洋城である。彼は漱石の松山中学校時代の教え子である。明治11年に前宇和島藩家老松根家の長男として出生、母は伊達宗城の次女。宮内省に勤める傍ら、俳誌「渋柿」を主宰し、芸術院会員、勲三等に叙せられ、昭和39年に86歳で没した。

 漱石への敬慕は一生続き、大正5年、漱石の死に際し、この「風に聞け」の短冊を前に思わず「死顔に生顔恋ふる冬夜かな」と詠み、偲んだ。東洋城は、芭蕉への回帰の道を説き、誹諧や連句を研究、芭蕉の吟行に倣ひ、俳句指導のため全国を行脚した。厳しい指導は「俳句道場」の言葉に相応しく有名。

 「いつくしめば」の句は、昭和8年、壺天子に与えたもの。同句は宇和島東高校に句碑がある。

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