伊東を発祥の地として全国に広がった伊東氏は、平安時代末期に、ここに住みついた藤原南家工藤氏に始まるといわれます。曽我兄弟の祖父伊東祐親の二代前、伊東家次が初代と考えられています。伊東家は、以後鎌倉時代をへて戦国時代末期まで、長い間この地とかかわりがあったので、伊東家館跡の伝承地は幾つかあります。 この高台の一角にある物見塚に、物見の松と伝承される老松があり、この場所は伊東家館跡と伝承されてきました。現在は物見塚公園となり、馬上姿の伊東祐親像が置かれています。永くその姿を誇って来た物見の松は、昭和57年に枯死し、現在はその塚の上に小さな三代目の松が植えられています。 この高台のふもとにあたる仏光寺も、鎌倉時代の伊東の地頭であった伊東八郎左衛門尉の屋敷跡と伝承されています。 |
壽永元年(1182年)武将伊東祐親が自ら壮絶な死の道をあゆんでより、すでに800年の歳月がきざまれた。源平両氏交替期の大きなうねりのなかで、その行く手を冷静に見きわめながらも譜代の臣として、斜陽の平氏への忠節に、ひとすじ、武将の信と意地をつらぬきとおした生涯であった。 後の世、この地に生をうけた一歌人が、次のようにうたった。 まぼろしの雄叫びきこゆ滅ぶると 知りつつ武将のちから竭しき ゆたかな歴史の息づくわたしたちの町・伊東には、その昔、領主として地域の繁栄に重要な役わりをはたした伊東氏をめぐる史蹟がかず多くつたえられている。 |
『曽我物語』には次のような記載があるそうだ。 仁安2年(1167年)頃、21歳の頼朝は伊東祐親の下に在った。祐親が在京の間に頼朝がその三女・八重姫と通じて子・千鶴丸を成すと、祐親は激怒し千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投げ捨て、頼朝を討たんと企てた。祐親の次男・祐清からそれを聞いた頼朝は走湯権現に逃れて一命を取り留めた。 |
つけすてし野火のけむりのあかあかと |
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みえゆくころぞ山はかなしき 八郎 |
明治から昭和にかけて活躍した歌人で、若山牧水など多くの歌人を育てました。 草仮名の名手としても知られる柴舟自筆の美しいかな文字で書かれたこの歌は、連作「天城野火」の中の1首として伊東で詠まれたもので、大正2年の歌集『日記の端より』の巻頭を飾る柴舟の代表作で八郎は柴舟の本名。 昭和初期に伊東(岡・広野)に別荘を構えて、晩年の多くをここで暮らしました。 この碑は、昭和6年に柴舟会によってこの丘に建立されました。 |
明治の大文豪といわれる幸田露伴が、この物見が丘の中腹にあった露月荘に滞在中、終戦後初めて春を迎えたときに詠んだ句です。 露伴は明治26年以来、何度も伊東を訪れ、特に晩年は、縁続きの松林館やその別館に滞在することが多く、別館が後に露伴にちなんで露月荘と名付けられました。 代表的な歴史評論「頼朝」では、音無の森を取り上げるなど、伊東にゆかりの作品は他にもあります。いづみ荘(旧館)で詠んだ「伊豆にして梅一番の初日かな」などもよく知られています。 |
その昔伊東の族(そう)になびきたる草木も枯れて黄なる一月 平家には申さぬ壻を逐ひしのちならひがちともなりぬる伊東
「深林の香」 |