林芙美子の小説『うず潮』は初島港から熱海の夜景を眺めるシーンで締めくくられているそうだ。 |
箱根の山をうち出て見れば浪のよる小島あり。供のも のに此うらの名はしるやとたづねしかば伊豆のうみと なむ申すと答へ侍しをきゝて 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ |
十時に船が出ました。船宿から座蒲團を持つて來なかつたので、帆を二つに折つて敷いた上へ坐りました。船頭は若い逞しい人達ばかりが六人選ばれて居ます。
四梃櫓を掛けて、二人が疲れた者と交代するのです。
海の上はそよとの風も無く、日光を船一杯に受けて温かでした。「えい、おい、えい、おい」と云ふ勇ましい船頭達の掛聲、「ぐい、ぐい」と云ふ櫓の音。船は半跳るやうに、半滑るやうにして快く進みました。
海は一面に深い紺碧を湛へて靜まり、私達の船の航跡だけが長く二條の錫を流して居ました。熱海の街が少しく煙り、網代の街の屋根瓦が光らなくなつた頃、船は航程の半分を越えたのだと船頭が云ひました。其頃から舳先に當る初島は藍鼠色より萌葱(もえぎ)色に近くなりました。私達の心は廣重の圖中にある旅客の氣分と、お伽噺や探險談の中にある傳説的な氣分とが絡んで浮世ばなれのした一種の快感を覺えるのでした。
「初島紀行」 |