保農保農登明石能浦廻(ほのぼのと明石の浦の) 旦霧尓四摩伽久禮行(島かくれゆく) 不念遠之所思(船をしぞ思ふ) |
有名な万葉歌人柿本人麻呂の和歌を万葉仮名で刻んだもので、骨太な文字を認めたのは、碑文にあるように蕋雲女史である。 蕋雲(ずいうん)は文化年間(1804〜17)、遊里新吉原の半松楼に抱えられていた遊女で、源氏名を粧太夫といい、蕋雲はその号である。粧太夫として当時の錦絵にも描かれており、書を中井敬義に学び、和歌もたしなむ教養ある女性で、江戸時代の代表的な文人、亀田鵬斎から蕋雲の号を送られたほどの人物であった。 この歌碑は、人麻呂を慕う太夫が、文化13年(1816年)8月、人丸社に献納したものである。人丸社は幕末の絵図によると、三社権現(現浅草神社)の裏手にあったが、明治維新後に廃され、碑のみが被官稲荷社のかたわらに移され、昭和29年(1954年)11月、現在地に移された。
台東区教育委員会 |
竹馬やいろはにほへと ちりぢりに |
生きるという ことむずかしき 夜寒かな |
川口松太郎ハ明治三十二年十月一日浅草今戸ニ生レル 昭和十年第一回直木賞受賞ノ「鶴八鶴次郎」ヲ初メトシテ小説脚本ニ名作多ク文壇劇壇ニ多大ナ足跡ヲシルス 特ニ新派俳優花柳章太郎水谷八重子等ニヨッテ演ジラレタ情緒豊カナ諸作品ハ観客ヲ魅了ス 這般ノ功績ニヨリ三十八年菊池寛賞受賞 四十年芸術院会員 更ニ四十四年「しぐれ茶屋おりく」ノ一篇ニヨリ吉川英治文学賞受賞 四十八年文化功労者ニ叙セラレル 最晩年渾身ノ筆デ連載小説「一休さんの門」ヲ脱稿後昭和六十年六月九日永眠ス 行年八十五才 三回忌ニ因ミ故人ノ終世ノ師久保田万太郎ノ傍ラニ同ジク句碑ヲ建テテ逝者ヲ偲ブ |