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立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「涙橋」ともいいます。 この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入府後の1600年頃と思われます。現在の橋は、昭和9年(1934年)に架け替えられたものです。 |
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慶安4年(1651年)、品川にお仕置場(鈴ケ森刑場)が設けられました。ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時、親族らがひそかに見送りにきて、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれるようになりました。 平成13年3月30日
品川区教育委員会 |

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ペリーが初めて来航した嘉永6年(1853年)、19歳の坂本龍馬は藩からの許可を得て江戸で剣術修行中でした。 土佐藩は立会川河口付近にあった下屋敷(今の品川区東大井)警護のため、江戸詰めの武士を動員し、龍馬もその中に加わりました。 同年9月には「異国船処々に来り候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候、其節は異国の首を打取り・・」と、父親に手紙を書いています。 品川での黒船警固から竜馬の幕末は出発したのです。 |

| 土佐藩・鮫洲抱屋敷跡 |
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| 土佐藩・浜川砲台跡 |
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所在地 品川区東大井2丁目
浜川橋のたもとから立会川が海にそそぐところまでが、土佐藩抱(かかえ)屋敷であった。幕府への「指出」によると869坪が抱屋敷の広さである。(抱とは拝領と異なり買入れ、借用していたものである。) ここは土佐から送られて来る物資の荷揚げ地であり、立会川から荷を陸上に上げていた。 ペリー来航の嘉永6年(1853年)土佐藩は砲台築造の「願」を幕府に提出し許可を得て、翌年、砲台を造った。浜川砲台といわれた。 砂浜のやわらかい土地を、石、土砂で埋め立て、2,300坪に拡大させている。砲台は8門を設置していた。警備陣は品川下屋敷を宿所としてこの砲台に配置されていた。浜川砲台と品川下屋敷を結ぶ連絡路は、現在の立会川商店街の道路であり、その距離、約200メートルである。 若き日の坂本龍馬も警備陣に加わっており、この道を毎日歩いていた。
【若き龍馬の足音】 |
