下 町台東区
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平賀源内墓〜平賀源内墓地修築之碑〜

JR京浜東北線日暮里駅下車。

都営バス「亀戸駅前」行きで「橋場二丁目」へ。

「橋場二丁目」停留所は荒川区南千住3丁目にある。

都道306号王子千住夢の島線(明治通り)の向かいは台東区橋場2丁目。

「史蹟平賀源内先生之墓」の道標があった。


昭和5年(1930年)12月、平賀源内先生顕彰会建立。

平賀源内墓(国指定史跡)


 平賀源内は享保13年(1728年)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる(生年には諸説ある)。高松藩士白石良房の三男で名は国倫(くにとも)。源内は通称である。寛延2年(1749年)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。本草学・医学・儒学・絵画を学び、事業面では成功しなかったが、物産開発に尽力した。物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などをおこない、エレキテル(摩擦起電機)を復元製作、火浣布(石綿の耐火布)を発明した。一方で風来山人・福内鬼外などの号名をもち、「風流志道軒伝」などの滑稽本や、浄瑠璃「神霊矢口渡」などの作品を残している。

 安永8年(1779年)11月に誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で12月18日に病死、遺体は橋場の総泉寺(曹洞宗)に葬られた。墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と刻む。後方に従僕福助の墓がある。

 総泉寺は昭和3年(1928年)板橋区小豆沢へ移転したが、源内墓は当地に保存された。昭和4年に東京府史蹟に仮指定され、昭和6年には松平頼壽(旧高松藩当主)により築地塀が整備される。昭和18年に国指定史跡となった。

台東区教育委員会

平賀源内墓


平賀源内墓地修築之碑


伯爵 松平頼壽篆額

平賀源内先生逝かれて百五十年先生には幾多の著作があり發明された物事も少なくなく今を盛の電氣なと其一である誰とて其功業を稱へない人があらう先生の墓はここ総泉寺跡にあつて大正十三年史跡に指定されたのに一昨秋區劃整理のため寺と共に市外に移されやうとしたが有志の人たちの骨折りで元通り保存されることになった今茲に境内を弘め石碑を建てて表にその由来を記し裏面に昔杉田玄白の作つた碑銘を刻んだのは績茂ひ此偉人を慕つて尚永く偲ばうとててある

 昭和五年四月十八日
醫學博士 呉 秀三撰
平安退士 山田得多書

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