2015年滋 賀

柏原宿〜皇女和宮〜
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寝物語の里から歴史街道中山道を行く。

歴史街道中山道



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江戸後期大和郡山領
   寝物語の里
柏原宿
   長久寺

柏原宿の八幡神社に芭蕉の句碑がある。

 ここ柏原宿は、お江戸日本橋より中山道六十九宿(草津宿東海道と合流)の内61番目になり、約112里(一里は3.9キロメートル)、京までは約21里のところにある。

 江戸時代は、随分栄えたもので、宿場としての業務も、かなり苦労が多かった様である。

 幕末広重画く柏原宿の看板は、何と言っても「伊吹もぐさ」の老舗伊吹堂で、現在の建物そのままである。当時「伊吹もぐさ」を商う店は十指に余り、中山道有数の宿場名物となっていた。現在は1軒だけとなっている。

 柏原宿は、規模が大きく、六十九宿中宿高で4番目、宿場の長さ13丁(1420メートル)は10番目、戸数人口もこの辺りでは東の加納(岐阜市)、西の高宮(彦根市)に次ぐ宿場である。

 しかも旅籠屋(旅人たちの宿屋)は、隣宿との距離が近かったにもかかわらず22軒もあった。

 現在、1軒も残っていないのが残念である。

 本陣、脇本陣は、それぞれ1軒、問屋(人馬、荷物の継ぎ立て一切を行う)は、当宿には6軒(開宿当時は20軒を数え、幕末になると、普通各宿多くて3軒までなのに、関ヶ原から番場までの5宿は、それぞれ6、7軒あった)、その問屋を補佐する年寄(村役人)は8軒あり、造り酒屋も一時は4軒もある盛況であった。

 この宿は、古くより東町・市場町・今川町(箕浦と言ったこともある)及び西町の4町からなり、宿場機能の中枢は、市場町でした。1つの宿場に4社も氏神があるのはそのためである。

 柏原の総社は、野瀬の神明社である。

 又お寺の多いことも有名で、ひと頃は30ヶ寺を越え、現在も15寺と3堂がある。

 中世京極道誉の随臣、箕浦氏が400年柏原を守った居館跡(柏原箕浦城跡)、近世徳川家光により創建された柏原御茶屋御殿跡(地名として残る)等がある。

 宿場からは外れるが、織田信長が宿泊した成菩提院は、天台談林三箇随一と言われた名刹で、盛時には、60坊を数えたと言う。国指定重要文化財等豊富である。

 また、宿場の東約13丁の地に江濃国境があり、有名な寝物語の里(長久寺)がある。

 この様な柏原宿であるが、しだいに昔の面影が消え、今にも忘れ去られようとしている。せめてもの思いに、下図の様な復元図(山東町史附図)を掲げた。

柏原宿整備調査委員会
米原市教育委員会

復元図(山東町史附図)


中山道柏原宿


享保2年(1802年)3月24日、太田南畝は柏原宿の本陣に泊まっている。

松並をヘ一里塚をこえて柏原の驛につく。驛者のさまにぎはし。伊吹艾ひさぐもの多し。わがやどれるかたは本陣にして、何某辰右衛門といふ。上段と覺しき所を避て次の間にやどれり。


柏原宿本陣跡


 本陣は、大名・幕府役人・宮家・公卿・高僧他貴人が利用する公的休泊施設である。

 柏原宿は江戸時代を通し南部家が本陣を務めている。間口はこの家の両隣りを合わせた広さで、屋敷は526坪、建坪は138坪あった。建物は皇女和宮宿泊の時、新築されたとも云われる。

 明治になり、柏原小学校前身の開文学校はここに創設された。その後、建物は明治中期に岐阜県垂井の南宮神社宮司宅へ移築された。

 文久元年(1861年)10月24日、皇女和宮が宿泊している。

 慶応元年(1865年)閏5月14日、第14代将軍家茂は第2次長州征討途上宿泊している。

中山道柏原宿


中山道分間延絵図


東山道と九里半街道

 (古道東山道の道筋)

 東山道は、横河駅があった梓を中山道と同じ道で東へ進み、長沢を過ぎ、ここ北畠具行卿参道入口のある谷間で、中山道と分かれ山越えをする。

 徳源院のある清滝へ降り、右へ折れ、成菩堤院裏山の北側を東進する。JR野瀬(山)の踏切に至り、再び中山道と合流して、県境長久寺へと向かう。

(九里半街道)

 中山道関ヶ原宿と番場宿の間は、九里半街道とも呼ばれた。

 木曽・長良・揖斐三川の水運荷物は、牧田川養老三湊に陸揚げされ、関ヶ原から中山道に入り番場宿で、船積の米原湊道へ進む。

 牧田から米原湊までの行程は九里半あった。関ヶ原・今須・柏原・醒ヶ井・番場の5宿は、この積荷で、6、7軒と問屋が多かった。

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