今年の旅日記

醒ヶ井〜鮫島中将の歌碑〜
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大津から岐阜に向かう途中で、醒ヶ井駅で途中下車。

日本武尊と醒ヶ井

父景行天皇の命により日本中を平定した日本武尊はここ伊吹山のふもとで倒れました。

この醒ヶ井の水で病をいやしたという伝説がのこっています。

 仁治3年(1242年)8月、『東関紀行』の作者は鎌倉へ下る途中、醒ヶ井に立ち寄っている。

 音に聞し醒が井を見れば、蔭暗き木の下岩ねより流れ出る清水、あまり涼しきまですみわたりて、誠に身にしむばかりなり。余熱いまだつきざる程なれば、往来の旅人おほく立寄てすゞみあへり。

西行が「道の辺の清水ながるゝ柳陰しばしとてこそ立とまりつれ」とよめるも、かやうの所にや。

   道のべの木かげの清水むすぶとてしばしすゞまぬ旅人ぞなき


 宝永5年(1708年)4月、明式法師は江戸に下る途上、醒ヶ井で日本武尊伝説のことを書いている。

野中の森のつま社こや花薄穂に出る神と詠し、また四手(しで)に泪のかゝるたぐひいとたうとし。千早振る神代の旅はしらず。伊夫技の神のとがめして、大和武尊大熱におかされ、身を水にひたし給へる御腰かけの石、醒井の中に有。大醒井小醒井ひとつながれなり。わがかほに鮎のまじりて流るゝけしき、げに興有。


国道21号を越える。

醒井郵便局


 旧醒井郵便局は大正4年(1915年)に米国出身のウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計によって建てられた木造二階建の擬洋風建築です。現在残されている建物は昭和9年(1934年)に外側を木造モルタル張りに改築されたもので、基本的な内部構造は創建時の建物を利用しています。平成11・12年度に実施した修裡工事中には各所にその痕跡が認められました。尚、この建物は平成10年度に国の登録有形文化財に登録されています。

旧中山道へ。

地蔵川


バイカモ

(沈水植物 キンポウゲ科)

 水温15度前後を保つ澄んだ湧水を好み、川の水底に群生し、流れに沿って這うように育つ鮮やかな緑色をした多年生水草である。手のひら状の葉が特徴で長さ約50cmの藻である。初夏から晩夏にかけて水面上に梅花藻の白い花が咲く。

 バイカモに寄生する水生昆虫は、ハリヨの好物であり、バイカモが繁殖することにより急流をさえぎり、ハリヨの巣づくり・産卵に絶好の場所を提供している。

ハリヨ

(トゲウオ科 イトヨ属)

 体長4〜7cmで生息分布は限られ、滋賀県東北部と岐阜県南西部の湧水をもつ水温20度以下の清流に生息している。ウロコはなく鱗板(りんばん)が前半身に6枚ほど一列あるだけで、後半身は黒緑色の雲状模様がある。トゲが背部に3本、腹部に1対、臀鰭(しりびれ)の直前に1本ある。繁殖期になると雄は婚姻色が現れ、その頭部の下側部は朱紅色を呈し、胴部は暗青色を帯びる。雄は縄張りを持ちその中心に水草や根などの繊維質のものを用いてトンネル状の巣を作り、雌を誘い入れて産卵させる。雄は卵が孵化するまで餌もとらず辛抱づよく巣を見張り続ける。寿命は短く年魚である。

醒井区

明治天皇御駐輦所跡


庄屋「江龍家表門」だそうだ。

ヤマキ醤油


享保2年(1802年)3月24日、太田南畝は醒ヶ井宿に入る。

醒井の驛にいるに右に水のなかるゝ音きよし。これ醒井の下流なるべし。この驛にさめがい餅うる家多し。とら屋といふも見ゆ。又寒さらしともいふ、伊吹艾ひさくもの多し。右のかたの水の中に日本武尊御腰掛石といふありて、その側に地藏堂たてり、額に濃州大垣石川日向守建立也と書り。醒井の水は古へより名高き所なり。日本武尊伊吹にて大蛇をふみて山中の雲霧にあひ給ひ、御心地まやましかりしが、此水をのみて醒給ひぬとなん。


日本料理店「本陣 樋口山」


本陣跡に建てられたそうだ。

雨森芳洲の歌

水清き人のをさめが井や底のさざれも玉とみるまで

雨森芳洲(1668〜1755)滋賀県長浜市高月町雨森出身

 江戸時代の儒学者、教育者、外交家。26才の時木下順庵の推挙により対馬へ渡る。以来、朝鮮・中国との外交に尽くし、特に朝鮮通信使との折衝、応接に貢献する。その善隣友好互恵対等の外交姿勢は現在も高く評価されている。

鮫島中将の歌碑


明治28年、北白川能久親王は、台湾で熱病にかかられ、重体になられました。病床で「水を、冷たい水を」と所望されましたが、水がありません。付き添っていた鮫島参謀は、かって醒井に来られた時の水の冷たさを思い起こされ、一枚の紙に

   あらばいま捧げまほしく醒井のうまし真清水ひとしずくだに

と詠んで親王にお見せになると、親王もにっこりされたと伝えられています。

鮫島中将の直筆の、歌碑です。

古い家並みは続く。


JR東海道本線醒ヶ井駅


柏原へ。

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