2024年埼 玉

高村光太郎の胸像〜高田博厚彫刻群〜
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 大正7年(1918年)、高田博厚は上京してまもなく、友人に連れられ高村光太郎のアトリエを訪れる。

 昭和31年(1956年)4月2日、高村光太郎は73歳で亡くなる。

高坂彫刻プロムナード南側に高村光太郎の胸像があった。


昭和34年(1959年)、高田博厚制作。

日本の彫刻界で彼のように聡明確実な腕を持った者は一人もいなかった。その上彼の世間を相手にしない孤高な魂はそれに気品を与えた。彼は木盆にヴェルレーヌの詩、「われは選ばれたる者の怖れと喜びを持つ」を原語で自ら彫りつけていた。

――作者――

左側から
   
右側から

   


カテドラル
La Cathedrale


昭和12年(1937年)、高田博厚制作。

ロダンが『フランスのカテドラル』の中で、ランスの寺を「跪いて祈る女」と云っているのは、勿論君は知っている。僕がはじめてランスの寺で受けた感動は、後年ギリシアのシシリアで受けたものと同質である。

春の小雨の降る日、細い道に入って右にまがったら、 不意に眼の前に、雲の流れる濡れた空の下に、膝を祈り、胸を張り、合掌し天を仰いで若い女が祈っていた。ランスのカテドラルが……。

――作者――

左側面
   
右側面

   


憩 い Le Repos


昭和36年(1961年)、高田博厚制作。

真の「空間」とは「自然」の中に「自我」が生むものなのだ。高い藝術作品がこれを示している。

――作者――

前から
   
やや後ろから

   


女の大トルソ
Grand torse de femme


昭和39年(1964年)、高田博厚制作。

一つの姿態、一つのトルソ。これは多様の外界から 「選ばれた」形である。構造(コムポジシオン)はここではじめて存在理由を持つ。そしてたとえば、私は一生無限に「トルソ」を作り続けるだろう。

――作者――

左側面
   
右側から

   


「海 La Mer」の像へ。

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