2008年埼 玉

東源寺〜菊図坊祖英塚〜
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深谷市稲荷町に東源寺という寺があった。


稲荷山東源寺


浄土宗の寺である。

東源寺の山門前に「菊図坊祖英塚(きくとぼうそえいはか)」があった。


深谷市指定文化財(史跡)である。

 この碑は、元は稲荷の地蔵堂の前(中仙道南側)にあったが、後にここへ移された。この塚については、文化2年(1805年)に出た「木曽路名所図絵」に

「観音堂 深谷にあり、一本の柳のもとに菊図坊の碑あり

   其銘に曰

我仏法に入りて風雅をさとり、風雅にもとづきて仏法をさとる。

   死ぬ事を知つて死ぬ日やとしのくれ

菊図坊」

と記されている。菊図坊は加賀国(石川県)出身俳人である。

 江戸時代の中ごろ仲町の脇本陣杉田氏宅に4、5年滞在し、深谷宿近隣の俳人を指導した。没後明和5年(1768年)、深谷の俳人南柳亭素山たちによって塚が建立された。塚の銘は加賀の人半化坊闌更の書である。

深谷上杉顕彰会

明和5年(1768年)1月1日、菊図坊祖英54歳で没。

安永3年(1774年)3月、菊図坊祖英追善のために俳諧菊の露』刊行。

「半化坊闌更」は高桑闌更

 素山は杉田太郎右馬栄長。深谷宿の問屋、名主を勤める。通称仙右衛門。高桑闌更門。

文政7年(1824年)7月10日、没。89歳。

 坊は何處の産か不明である。深谷の名家酒井氏が伊香保にて懇意になり、再會を期して袂を別つた。以來杳として何の音沙汰もなかつた。

 或る時酒井氏宅を訪れた一人物があつた。折りしも主人不在、餘りの見すぼらしい風采に家人は取りあはなかつた。彼はちよいとした紙片に

   苦くとも味はうて見よ藷の薹

といふ一句を殘した立去つた。歸宅した主人はびつくり驚天、これは慥かに伊香保で會つた菊圖坊、坊はまだ遠くは行かじと後逐ひかけ、並木あたりでまごまごしてゐる處を連れ歸つて、地藏堂あたりに置き、大切に世話をした。

 町内は申すまでもなく、近郷近在の村老野人に至るまで、坊に就いてヘを受け、古池やの道に精進した。

 坊はかくて暫らく深谷に草鞋の紐を解いたまゝであつたが、急に旅に出たくなり、町民から貰つた餞別全部を投げ出して菓子を買ひ込み、隣近所の子供達に菓子振舞ひして懐中無一物となり、飄然北の方上州へと志し、ゆくりなくも大利根に突き當つて立往生するや否や、

   死ぬことを知つて死ぬ日や年の暮

といふ辭世を殘し、ざんぶとばかり身を躍らして飛び込んだが最後、毎びこの世に姿を見せなかつた。

『深谷町誌』

昭和12年(1937年)4月10日、『深谷町誌』発行、著者は山口平八。

井村祖風は菊図坊の碑を見て句を詠んでいる。

さとりてや柳も骨となりにけり   知立 祖風

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