東武伊勢崎線羽生駅を出ると、建福寺に「田舎教師の墓」があるというので、立ち寄ってみた。 |
日本の自然主義文学の代表作とされる小説『田舎教師』は、ここ羽生が舞台となっており、市内各地にそのゆかりの跡がのこされています。作者田山花袋は、この建福寺に下宿していた青年教師小林秀三の日記を目にし、それをモチーフとして書きました。秀三は21歳の若さでこの世を去り、志なかばにしてはてた無念さを思うと心が痛みます。まさに“四里の道は長かった”のです。
羽生市教育委員会 |
四里の道は長かった。その間に青縞の市のたつ羽生の町があった。田圃にはげんげが咲き、豪家の垣からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出しを出した田舎の姐さんがおりおり通った。 青年教師小林秀三は熊谷から羽生の弥勒高等小学校まで「四里の道」を通ったのである。 |
昭和13年4月、田舎教師で知られるこの羽生に3人の作家がおとずれ、記念の句を宿の扇子に書きしるした。 この貴重な遺産を長く後世にとどめるため、これを拡大して句碑とし、ゆかり深いこの寺に建立する。 |
建福寺二十三世住職は樋口一葉、島崎藤村、田山花袋らと共に『文学界』で執筆活動した太田玉茗。 「それから、羽生の成願寺に山形古城がいるアねえ。あの人はあれでなかなか文壇には聞こえている名家で、新体詩じゃ有名な人だから、まず第一にあの人に賛成員になってもらうんだね。あの人から頼んでもらえば、原香花の原稿ももらえるよ」 |
田山花袋の名作『田舎教師』の主人公林清三こと小林秀三の墓である。君は明治34年3月、熊谷中学校を卒業し、翌月、弥勒高等小学校に奉職した。 間もなくここ建福寺に下宿し、6粁の田舎道を通った。後に両親と羽生に移り漸く生活の安定を得たが間もなく病にかかり、明治37年(1904年)9月、21才の若さでさびしくこの世を去った。 花袋は墓前にとむらい、住職の手もとにあった彼の日記を読み、大志を抱いて田舎に埋もれて行く青年を見出し、やがて名作を生んだのである。 「故小林秀三君之墓」は狩野徳次郎の筆、「田舎教師」の碑は小杉放庵の筆。
羽生市教育委員会 |
![]() | ![]() | |
運命に従ふものを勇者といふ
『田舎教師』より |