参勤交代制を定めた江戸幕府は権力者の休泊施設の運営を民間人に申し付け本陣と名付けた。 現今本陣跡は江戸時代の交通制度を物語る記念の場所として扱われる場合が多い。 飯島家は宝暦2年(1752年)より明治3年まで本陣職を勤めた。 上段の間、次の間、入側が古色を帯びてこの奥に現存している。
深谷上杉顕彰会 |
菊図坊祖英は脇本陣杉田氏宅に4、5年滞在し、深谷宿近隣の俳人を指導した。 高桑闌更門の俳人南柳亭素山は深谷宿の問屋、名主を勤めた。 |
元禄7年(1716年)、近江商人田中藤左衛門が創業した蔵元だが、廃業してしまった。 |
享和2年(1802年)4月5日、太田南畝は深谷宿の様子を書いている。 |
深谷の駅は榛澤郡にして、御代官野口辰之助支配とある榜示みゆ。左に社あり、駅舎の道の中に苫・筵・畳・俵やうの物、又はくだ物・青物をつらねて賑はしきさまなれば、輿かくものにとへば、こゝは五・十の日に市たちてにぎはゝし、けふは五日なればかくつどへりといふも所がらおかし。ある家のみせさきなる株に、今より三年が馬つなぐべからずとかけるもめづらし。 |
天保14年(1843年)、深谷宿は約1.7kmの間に80軒もの旅籠があったそうだ。 |