2008年埼 玉

遍照院〜山崎碩茂の墓〜
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埼玉県の上尾市上町に遍照院がある。


真言宗智山派の寺である。


遍照院に山崎碩茂の墓がある。

上尾市指定有形文化財(史跡)山崎武兵治碩茂の墓

 山崎碩茂(通称は武兵治)は、当時高名な学僧の雲室上人を上尾に招いて「聚正義塾」の開設に尽力し、雲室が上尾宿を去ってからは、同塾を主宰した人物である。 氷川鍬神社北隣で旅籠屋を営む山崎家は、代々「武兵治・武右衛門」を称しているが、碩茂は四代目である。文政6年(1823年)の上尾宿人別帳によると、同家の所有地は1町7反2畝歩(約1.7ヘクタール)で、宿内では比較的多い方に属する。碩茂は漢学者の石井永貞の門人で、入門の経緯は明らかでないが、ただ永貞の従弟に上尾宿の山崎仙右衛門がおり、度々永貞は上尾宿に来遊しているので、仙右衛門の紹介で入門したとも考えられる。

 聚正義塾の開設は、天明7年(1787年)7月に藤沢(藤沢市)で水害に遭った雲室を永貞が見舞い、江戸へ帰る道すがら上尾の話をしたのが端緒とされる。その後、雲室は江戸の永貞宅で上尾宿の仙右衛門に会い、上尾宿に行くことを約束している。雲室が上尾に来遊したのは天明8年(1788年)の春のことで、このとき碩茂は学塾の開設を請願したのである。上尾宿に開いた郷学(一郷の人が学べる場所)のこの学舎は「二賢堂」と称し、氷川鍬神社に「上尾郷二賢堂碑記」等が残っている。

 碩茂は文政9年(1826年)5月20日、63歳で没し、遍照院の山崎家墓所にある墓石の正面に「自然院三徳碩茂ハ覚居士」と戒名が、側面には「名月やひとつに帰る人心 山碩茂」と辞世の句が刻まれている。

上尾市教育委員会

墓石側面に刻まれた辞世の句


名月やひとつに帰る人心 山碩茂

碩茂は布袋庵横田柳几門の俳人。

上尾市宮本町の氷川鍬神社に芭蕉の句碑を建立。

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