2021年佐 賀

楠神社〜義祭同盟之碑〜
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長崎街道(札の辻)


ここは城下を東西に貫く長崎街道のほぼ中間にあたります。現在地のやや東には、法令などを掲示する高札場があったことから札の辻と呼ばれ、多くの人々の往来で賑わう場所でした。かつて城内にあった龍造寺(高寺)と八幡宮は、佐賀城築城の際、城下北部中央にあたる当地へ移転されました。近代になって八幡宮が北に移転したため、かつての長崎街道は境内地となっています。

八幡宮は江戸時代、白山八幡宮とよばれていた。

佐賀市白山に龍造寺八幡宮がある。


文治3年(1187年)龍造寺家の始祖南次郎季家が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の分霊を勧請して祀った。

本邦創祀楠神社


御祭神 正一位 楠正成命・従二位 楠正行命

今もなほ天津日嗣の御世ぞかし
    守らせ給へ楠の神 種臣

寛文3年(1663年)佐賀藩の国学者深江信渓大木英鉄等が京都の仏師法橋宗南に托して楠公父子桜井駅訣別の像を作成し、佐賀郡北原村の永明寺に安置したのに始まる。降つて嘉永3年(1850年)楠公義祭同盟が結成され、安政元年(1854年)地を龍造寺八幡宮境内に移して楠神社を建立しこの尊像を御神体として奉祀し毎年義祭を盛大に行った。

明治維新の元勲として国事に盡瘁した佐賀藩の大先輩江藤新平、副島種臣、大隈重信等はことごとくこの同盟に加わり後年世に出て名をなした。

楠公父子桜井駅訣別の像


非理法権天


無理(非)は道理(理)に劣位し、道理は法式(法)に劣位し、法式は権威(権)に劣位し、権威は天道(天)に劣位する

伊勢貞丈『貞丈家訓』

義祭同盟之碑


平成12年(2000年)5月、建立。

明治維新佐賀勤皇家会合の先駆をなした義祭同盟は、佐賀藩の学者枝吉神陽に薫陶を受けた志士等が嘉永3年(1850年)本庄村梅林庵に祀る楠公父子尊像の御前において祭典を執行した。これが佐賀勤皇論の始まりである。佐賀藩の重役執政安房は義祭同盟を支持、安政5年には八幡宮境内に楠社を創建し自ら盟主となって5月25日新装の社殿で盛大な義祭を執行した。この同盟に参加したのは副島種臣・江藤新平・大隈重信等実に多くの志士たちであった。この同盟は明治13年まで毎年5月25日に厳粛な義祭を行い、祭典終了後は無礼講として一切格式を問わず談論風発、悲憤慷慨して縦横の論議を闘わし最も意義ある会合となした。これが維新鴻業の原動力となり後年この中より明治政府における大政治家をはじめ数多くの優れた人材を輩出し佐賀藩の面目を躍如として天下に知らしめた。ここに同盟結成百五十周年を記念し当時の志士たちの計り知れない労苦を偲び、遺された偉大な功績を稱えてこの顕彰碑を建立するものである。

楠公義祭同盟


「義祭同盟」は、知らなかった。

佐賀駅特急「みどり34号」


「白いみどり」で運転。

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