菅原道真公ゆかりの神社で、古墳造営など土木技術に長じた土師氏の氏神として成立したものと考えられる。古くは土師神社と称し、菅原道真公・天穂日命・菅公の叔母覚寿尼を祭神としている。菅公の遺品として銀装革帯(ベルト)や青白磁円硯など平安時代の美術工芸の代表作が伝えられており、国宝に指定されている。 広い境内には、約80種800本の梅林があり梅の名所として知られるほか、三ツ塚古墳周濠より出土した修羅の復元品がある。
藤井寺市教育委員会 |
三日、誉田より大和川を渡りて、土師村菅公廟に詣(まゐ)るに、贈大(太)政大臣正一位と云額ありて、社内に天穂日命(あまほひのみこと)の社あり。はた門前に梅の並木ありて、 青梅や餓鬼大将が肌ぬいで 暁や鶏なき里の時鳥 |
青梅や |
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餓鬼大将が |
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肌ぬいで |
垂仁天皇の32年(西暦32年)、野見宿祢(のみのすくね)が、埴輪を創り殉死に代えた功績により、「土師」の姓とこの辺り一帯を所領地として賜って以来、遠祖天穂日命をお祀りし、土師神社と称した。 推古天皇2年(594年)には、聖徳太子の発願により、土師八嶋が自宅を喜捨し土師寺を建立。 土師氏は「菅原」へと改姓し、菅原氏の氏神となり、菅原道真公のおば様である覚寿尼公が住まいとしたので、道真公は当地を度々訪問される。 昌泰4年(901年)道真公筑紫へ下向の時、 世につれて浪速入江もにごるなり道明らけき寺ぞこひしき と詠まれ、道明寺へ訪問されるも、鶏鳴により出発することとなり、 鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな との御歌を残されて西海に赴かれた。 その後、天暦元年(947年)に残し置かれた木像を北丘にお祀りし、ご遺品をご神宝(国宝)として安置し、天満宮を創建、土師神社を道明寺天満宮と改めた。 明治5年(1872年)、神仏分界により、尼寺は西に移転し現在に至る。 |
母の手に稚児の冠菜種御供 | 余生 |
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宝物殿今日紅梅に開けてあり | 隆子 |
吉井余生(直三郎) 藤井寺市古室在住 勲三等旭日中授章 大阪大学名誉教授 医学博士 ホトトギス未央同人 同夫人隆子 ホトトギス未央同人 |
西矢籟史先生に俳句の指導を享けその俳徳に浴したる者相寄りて師が生誕の地ここ文の神の聖域にこの句碑を建立す |
河内野四代目主宰 山下美典先生 二十五年目の祝ぐに当り この句碑を建立する |