
|
伝承 |
|
標高約70米。古くから内海の景勝地として知られる。もとは、海中の一孤島とも、応神山と連続していたとも伝えられる。 別名、「海松(みる)が丘」、「吸江山」、「高松の城山」と言われた。 |
|
笠岡城 |
|
弘治年間(1555〜1558)に能島村上水軍の一族、村上隆重が笠岡城を築城。その後、村上景広、毛利元康が在城。関ヶ原合戦後、徳川家康の所領となり、代官、小堀新助が入城。 元和2年(1616年)池田備中守長幸の居城。 元和5年(1619年)松山城(高梁市)に移り、笠岡城は廃城となった。 明治40年(1908年)末新田埋め立てのため切り下げられ、城の遺構が消滅した。 昭和31年、笠岡市の都市公園となる。
笠岡市都市計画課 |


|
西国へくだり侍りし時、備中の国かさおかにて 「山松のかけやうきみる夏の海」 連歌師宗祇は明応3年(1494年)3月弟子の宗長、宗作を連れて山口へ向かう途中、笠岡の陶山一族訪ねて詠む。 |
|
宗祇が大内政弘に招かれ都から山口へ向かうのは、文明12年(1480年)のこと。 |
|
影不知 山松のかけやうきみる夏のうみ
『老葉』(10巻) |

|
手つから雨の侘笠をはりて 世にふるもさらに宗祇のしくれ哉 |
|
此句五文字を世の中と笈日記にはしるさける筆の誤なるべし虚栗の比也 |
|
『諸国翁墳記』に「嶌 塚 備中州笠岡吸江山 唐葵菴連中建 ほとゝきすきへ行かたや嶋ひとつ」とある。 明和8年(1771年)、南江の七回忌に笠岡連中が「嶌塚」を古城山に建立。 |
|
〔安永〕八年二月二十九日、京僧蝶夢、沂風を伴ひ出雲大社参詣の途、岡山、笠岡にて交遊、笠岡連中蝶夢を導師に請うじ、かつて建立せる嶌塚供養の俳諧を興行し「島塚集」を上梓す。
『吉備俳諧略史』(西村燕々編) |
|
安永8年(1779年)3月3日、蝶夢は出雲行脚の途上笠岡を訪れ、9日まで滞在。吸江山に登る。「嶌塚」供養の俳諧を興行。 |
|
ある日、此裏山の吸江山に登る、江の中に出たる山也、めなれぬけしき多かる中にも、遠くは伊豫讃岐の山々横をれふし、近くは神武天皇の御船着たる神島、能登守教輕の合戦ありし水島をはじめ、鞆の津泉水山の島どもまで、なごりなくみゆ、かゝるながめあればにや、中むかし宗祇法師もこの浦山にて 山松のかげやうきみる夏の海 といふ發句ありしより、見るが岡といふ、爰に芭蕉翁の墳を築き一宇の草堂を建て、年月をへていまだ供養なかりしかば、其事すとて、六日ばかりがほど、此浦べにとどめられける。 |
