2013年長 野

伊那街道〜小野宿〜

indexにもどる

辰野町小野の国道153号(伊那街道)沿いに武家屋敷倉澤家がある。


武家屋敷倉澤家


初期中山道小野宿問屋址」の碑があった。

 初期中山道下諏訪から伊那小野宿を経て牛首峠を越え、桜沢に至る道筋(小野街道)であったそうだ。

 後に下諏訪から塩尻峠を越えて塩尻、洗馬、本山の3宿を通る中山道が設定された。

天明4年(1784年)3月15日、菅江真澄は小野に泊まっている。

此夕、小野の里にとまる。憑の里ともいへり。明日は伊奈部の駅に罷らんといへり。

   草まくらこよひ田面にかりねしてあすはいなべの里にたどらん

『すわのうみ』

小野宿問屋(旧小野家住宅)


 伊那街道小野宿の問屋・名主をつとめた小野家の建物で、安政6年(1859年)の大火後に建築されたものである。

 梁行10間半、桁行8間半という大規模な本棟(ほんむね)造り(切妻造り・妻入り)の民家で、正面に胴差と妻梁という2段の太い横架材をみせている。また、本棟造りの正面性を強調するために、梁行10間半から発生する非対称の視覚的解消や破風に転びをつけるなど、様々な技法が駆使されているのもこの建物の特徴であり。松本平にある本棟造りが庇をつけて水平性を強調しているのと対比的で、立面の堂々たる姿を強調した建築とみることができ、その面では最も代表的な本棟造りとみることができる。

 間取りは間口10間半を4列に割り、奥行に3室ずつ設ける配置を基本として、正面に向かって左側には式台玄関から3部屋続きの座敷を設け、奥座敷は床が1段高くなった上段の間となっている。これは本陣のなかった小野宿で問屋が本陣的な役割もつとめたためである。右側は大戸を入ると土間に馬屋(まや)があり、奥に勝手(台所)が配されている、2階は表側と裏側それぞれに部屋を設けている。

 敷地は、街道に面した間口が14間半、奥行きが約50間の短冊形である、主屋は道路から2間ほど後退して建てられ、両脇には門を設けている。北側には薬医門形式の表門、南側は通用門である。主屋の背後東側には上雪隠・湯殿があり、廊下で結ばれている。そこから裏側を隔てて土蔵、主屋の南東隅には井戸がある。

 幕末における町家、特に宿問屋としての姿を今日に伝え、小野宿町並みの中心部の景観を形成する重要な建物のひとつである。

 平成3年、小野康正氏より町に寄贈されたのを機に町文化財に指定された。

辰野町教育委員会

「南塩終点の地」の碑があった。


 塩の道とは、いわゆる塩が運ばれた道のことで、地域の幹線路となっていた道である。

 平成7年10月、日本海と太平洋を結ぶ縦の連携軸350キロメートルに着目し「日本海⇔太平洋塩の道会議」が、南北の道を連結し、21世紀の生涯学習街道をめざし発足した。辰野町も住民が地域に誇りをもって暮らしていくことを願い参加した。

 太平洋沿岸で取れる塩を南塩といった。三河湾沿岸で取れた塩は、矢作川を舟で運ばれ、更に馬の背で足助まで運ばれた。この塩は「足助塩」として中馬により伊那街道を根羽から飯田を経て伊那谷を北上し、伊那街道に宿場があったこの地域まで運ばれてきたと考えられる。

 駿河湾から富士川舟運によって鰍沢河岸に陸上げされたいわゆる「鰍沢塩」は、甲州街道を諏訪へ運ばれこの地域に入り、また、江戸沿岸で取れた塩や西国から江戸に運ばれた塩は「江戸塩」と呼ばれ、小野の石灰職人が上州高崎や倉賀野まで出向き、石灰を各地で売りさばいた後、帰り荷として道中で売りながら小野まで運んでいた。

 一方、北隣の松本藩では、越後の塩を糸魚川街道によって移入し、他領へは売りさばかなかったので、松本藩領であった北小野地方へは善知鳥峠を越えて北塩が入ってきても、それ以南の伊那地方へは越後の塩は入らなかったと考えられる。

 このように辰野地域は、塩の道の複合地帯であり、南塩の終点地であったといえる。

辰 野 町
日本海⇔太平洋塩の道会議

2013年長 野〜に戻る