「芭蕉句碑」存 疑


入梅はれのわたくし雨や雲ちきれ

中山道は洗馬宿で善光寺街道と分かれる。

塩尻市宗賀洗馬の旧中山道沿いに高札場跡があった。


高札場跡


ここは洗馬の高札場があったところで、後に御判形(おはんぎょう)とよばれた。伝馬駄賃勘定や幕府のお触れなどが掲げられていた。

明治以後裁判所の出張所(後に宗賀村役場)敷地の一部になり、その建物は「どんぐりハウス」として移築利用されている。

洗馬区

高札場跡に「芭蕉」の句碑があった。


   信濃の洗馬

入梅はれのわたくし雨や雲ちきれ

   芭蕉
俳諧一葉集より

昭和53年(1978)3月、建立。

存疑の句である。

芭蕉同句俳諧句集もとの水より

   しなのの洗馬

つゆはれのわたくし雨や雲ちきれ

「わたくし雨」は、にわか雨のこと。

『風羅袖日記』には「元禄三午・夏の部」に収録されている。

 『芭蕉翁句解参考』に「わたくし雨とハ、雲ちぎれたる空よりぱらぱらとふり過るなるべし。」とある。

『奥の枝折』には「露晴の」とあり、「秋の部」に収録されている。

『芭蕉句鑑』には「貞享元甲子年」に収録されている。

 貞享2年(1685年)、貝原益軒は洗馬の町のことを書いている。

○洗馬より本山へ三十町、洗馬の町家八十軒ばかり有。町の東入り口に水野隼人殿茶屋あり。西の出口に小澤川有。此北二里に今井という所あり。兼平が住し所といふ。是虚説なるか、木曾にも今井という所有。兼平住せしと云。洗馬の西に太田の清水とて水あり。木曾義仲の馬を洗ひし所也。故(かるがゆゑに)洗馬の名付と云。


 宝暦13年(1763年)3月、蝶夢は越前の俳人蕉露を伴い松島遊覧の途次信州に入った。

 横雲と共に福島の関立でれば、夕べには似ず雪の白妙なるに、明残れる月の寒げに照わたり、こゝの尾上かしこの谷陰には、桜のいとおもたげに雪の下に咲出たるは、「空にしられぬ」といふ気色にもあらず。かく雪月花を一時に詠るは、いかなるすくせある日にや。巴が淵・山吹の平、行々て洗馬といへる平原の地に出づ。馬頭初見米嚢花も暗に思ひあはせらる。桔梗が原の古戦場に首塚といふ所多し。蕉露が句あり。

   その時の俤見する茅花(つばな)かな


洗馬の宿を詠んだ常世田長翠の句がある。

   途中

雲雀啼洗馬の宿引我も曳

 享保2年(1802年)4月1日、太田南畝は「洗馬の名」について書いている。

洗馬の駅には、松本諸白うる家多し。追分荷廻し所と書し札ある家もみゆ。左の方に太田清水といふありて、木曾殿の馬を洗ひしより洗馬の名ありとぞ。


 嘉永6年(1853年)5月18日、吉田松陰は江戸に行く途中、福島から洗馬に泊まる。

洗馬に宿す。行程九里。是の日、雨甚だしく窘迫(きんぱく)極まれり。


 明治25年(1892年)5月、正岡子規は木曾紀行文「かけはしの記」を『日本』に連載する。

 松本にて昼餉したゝむ。早く木曾路に入らんことのみ急がれて原新田まで三里の道を馬車に縮めて洗馬までたどりつき饅頭にすき腹をこやして本山の玉木屋にやどる。こゝの主婦我を何とか見けん短冊をもち来りて御笠に書きつけたるやうなものを書きて給はれと請ふ。いかなる都人に教へられてかといとにくし。

 明治27年(1894年)6月、高浜虚子は塩尻で昼食、洗馬に着く。

裏山は日影の畑に桑摘む少女も見えて、杜鵑花、菖蒲の咲きまじりたるこゝを行脚の命、美は満ち満ちたり一歩の天地、思へば遠くも来たるかな、山河千里の変化独り心に嬉し。塩尻村に昼餉したためて、日向にかざす菅笠重く松の木蔭をたどりて洗馬の駅に著く。清水あり、木曾殿の馬洗ひし処と言ひ伝ふ。行く事一里半、桜沢といふ処あり。こゝより木曾路なりと云ふ。女のまだうら若きが鉄漿つけて、自在の蔭に煙にむせたるも面はゆげにうつくし。此あたりより男女とも袴着けて、畑打ち桑摘むなり。幼児の姉を呼ぶに姉さま、祖母を呼ぶに婆々さまと云ふ。

   夏の夕菅笠の旅を木曾に入る

   麻衣の木曽の早乙女鉄漿黒し

   木曾の奥桑の実青し子規

此夜贄川に宿る。

   夕暮の芥子の花見ゆ木曾の宿

「木曽路の記」

 大正15年(1926年)9月25日、荻原井泉水は木曽福島から姨捨山に向かう途中で洗馬を通りがかる。

   つゆはれのわたくし雨や雲ちぎれ   芭蕉

この句が『もとの水』に「しなのの洗馬という前書がしてある。この洗馬にての作と思われるが、『更科紀行』の時とは季節が違うから別の折の作であろう。洗馬では、義仲が馬を洗ったというその井戸を、道端の家並の中に見たような古い記憶がある。

『随筆芭蕉』(姨捨山に来て)

 昭和26年(1951年)8月10日、水原秋桜子は洗馬を通りががる。

   洗馬にて

夕立つ山迫りてこゝは木曾の洗馬

『残鐘』

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