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この地は、通称「三本松」と呼ばれてきました。 塚は、高さ1メートル、直径7.5メートルほどで、地名字「行人塚」の発祥の地となっており、この塚の上に三本の松が育っています。 北国街道に接しているこの「行人塚」は修行者をまつった塚とも旅行者を葬った場所ともいわれており、塚には 幽雲 皈元 | 霊常陸国画工弘化三年正月六日 妙雲 と読み取れる小さな墓碑もあります。 ここは、北の方角に、信越五岳(飯縄・黒姫・戸隠・妙高・斑尾の五山)が望め、四季折々の姿を楽しませる風光明媚な地であり、街道の峠でもあるため、旅人が一息ついた場所でもありました。 昭和36年には、有志により塚の隣に、一茶の句碑が建てられました。「父ありてあけぼののみたし青田原」この句は享和元年(1801年 )4月に書かれた『父の終焉日記』の中の句で、一茶15歳で江戸に旅立つとき、見送りにきた父とこの辺りでわかれたであろうと推定して立てられたものであります。 飯綱町は、この由緒ある場所の保護・保存に努めています。
飯綱町 |

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いなや、返しなきに、無下に里出せんも、亡父の心にそぶくかと、しめ野分るを談じあひけるに、父の遺言守るとなれば、母家の人にさしづに任せて、其日はやみぬ。 |

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五月二十二日 享和元年 ・・・父は我を一度古郷を遠ざくるにしくはあらじと思はれけん。十四才の春の暁、しほしほ家を出し時、父は牟礼迄おくり給ひ、毒なるものはたうべなよ、人にあしざまにおもはれなよ、とみに帰りてすこやかなる顔をふたゝび我にみせよやとて、いとねもごろなることの葉におもわず涙うかみしが、未練の心ばしおこりなば、連なる人に笑はれん、父によわき歩みを見せじと、むりにいさみて別れけり・・・『父の終焉日記』 |
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北信濃二日目。念願の晴天。野尻湖のむこうに黒姫、飯綱が迫る。窓前の辛夷の蕾はほころぶ(夕方帰ったとき、開花のものあり)。 牟礼峠で写す。「父ありて」の句碑。これから故郷に入る一茶の心境。三山美事。林檎は芽すこし。
『金子兜太戦後俳句日記』 |
