小林一茶ゆかりの地


『父の終焉日記』

『父の終焉日記』(文化3〜4年頃)


 享和元年4月、一茶39才の春、たまたま帰省中であった一茶が父の発病にあい、その臨終、初七日を迎えるまでの出来事を書き綴った日記である。寛政12年刊の天地庵我泉の歳旦帳の裏面に書かれたこの草稿は、明治の世になってから束末露香によって『父の終焉日記』と名付けられ、大正11年、露香の校訂本が荻原井泉水によって刊行された。

明和2年(1765年)8月17日、母くにが他界。

明和7年(1770年)、継母はつが来る。

安永元年(1772年)、異母弟仙六が生まれる。

安永5年(1776年)8月14日、祖母かな没す。

安永6年(1777年)春、一茶は一人江戸に出る。

享和元年(1801年)3月29日、柏原に帰省。

 4月23日、父弥五兵衛発病。5月21日、臨終。

 四月廿三は、清和の天雲なく晴て、山ほとゝぎすはつ音告渡る日、父はなすびの苗などに水などかけておはしけるに、なにとおぼしてんや、破冉(すは)青陽の日なたをうしろ[に]うけていましける。

 廿六日 晴 野尻の里迅碩を請待(しょうだい)してみせしむるに、「脈は裡にひづみて、いはゆる陰生(いんしょう)の傷寒なれば、快気も万にひとつなるべし。」と、たのもしげなく云るゝ。

 廿七日 雨 いとゞ淋しきに雨のふりまさりてくらしかぬるを、友がき竹葉のもとよりかくなん。

   五月雨(さつきあめ)雨とて空をかざす哉

 五日、薬相応したりければ、しばしば進め参せ度、炭火煽ぎつゝ、心ちよげなる寝すがたを倩(つらつら)守り奉るに、顔色うるはしく、脈をうかゞふに一つとして不足なければ、十に九つは本復ならめ(と)悦び侍けり。末に思へ(ば)、快気あれかしとおもふ欲目の見る所也。

   足元へいつ来たりしよ蝸牛(かたつぶり)

 六日 天晴たれば、伏してばかりも退屈にやおぼしめさ[ん]と、夜着打たゝみて、よりかゝらせ申たりき(し)に、こしかたの物がたりなど初給ひけり抑(そもそも)汝は三歳の時より母に後れ、やゝ長(たけ)なりにつけても、後の母の仲むつまじからず、日々に魂をいため、夜々に心火をもやし、心のやすき時はな[か]りき。ふとおもひけるやうは、一所にありなば、いつ迄もかくありなん。一度古郷(ふるさと)はなしたらば、はた、したはしき事もやあるべきと、十四歳と云春、はろばろの江戸へはおもぶかせたりき。あはれよ所(そ)の親は、今三とせ四と[せ]過たらんは、家を任せ、汝にも安堵させ、我等も行末をたのしむべきに、としはも行ぬ痩骨に荒奉公させ、つれなき親とも思つらめ。皆是すくせの因縁とあきらめよや。今年は我も二十四輩に身をなして、かの地にして一度汝に巡りあひ、相果つるとも汝が手を借らんとおもひしに、こたびはるばる来りて、かゝる看病こそ浅からざゑ(え)にしあれ。此度今往生とげたりとも、難の悔かあらん」と、はらはらと、涙落し給ふに、一茶は只打ふして、物も得言ず。

 諸天・善神の力も及ばざらんと、只念仏申より外にたのみはな[か]りき。

   寝すがたの蝿追ふもけふがかぎり哉

 かくて日も暮れぬれば、枕元の器の水に、かひなき唇をぬらし参らすばかり也。

 しほ(を)しほ(を)と手を空しくして、いまは時を待のみの胸のくるしび、かなしびを、天神・神祇もあはれみもなく、夜はほがらかに明かゝり、卯上刻といへる比、眠るごとく息たへ(え)させ給ひけり。

 [廿一日]法師は塩崎てふ里にして、行程九里の巷なれば」、葬は翌廿二日に定たれども、ゆかりある人は訪ひつどひ、或は紙花を作り、しばらく愁を避に煮たりき。

 父は我を一度古郷を遠く[る]にしくはあらじと思れけん、十四歳の春の暁、しほ(を)しほ(を)家を出し時、父は牟礼迄おくり給ひ、「毒なるものはたうべなよ。人にあしざまにおもはれなよ。とみに帰りて、すこやかなる顔をふたゝび我に見せよや」とて、いとねもごろなることの葉に、おもはず涙うかみしが、未練の心ばしおこりなば、連なる人に笑はれん、父によは(わ)き歩みを見せじと、むりにいさみて別けり。

 けふも申の刻ばかりに、木々のむら雨しばらく晴て、草の雫に夕日うすづく比、やゝ塩崎の導師来り給ひて、今は野おくりの時とはなりぬ。

 心を引さるゝ妻子もなく、するすみの、水の泡よりもあはく、風の前のち(り)よりもかろき身一つの境涯なれど、只きれがたきは玉の緒なりき。

   生残る我にかゝるや草の露

 いなや、返しなきに、無下に里出せんも、亡父の心にそぶくかと、しめ野分るを談じあひけるに、父の遺言守るとなれば、母家の人にさしづに任せて、其日はやみぬ。

   父ありて明ぼの見たし青田原

(日記別記)

 春さり来れば、はた農作の介(たすけ)と成て、昼は日終(ひすがら)、菜つみ草かり、馬の口とりて、夜は夜すがら、窓の下の月の明りに沓打、わらじ(ぢ)作りて、文まなぶのいとまもなかりけり。

 明和九(年)五月十日、後の母男子仙六を生めり。此時信之は九歳になんなりけり。

 しかるに、明和(安永)五年八月十四日、杖柱とたのみし老婆、黄泉の人と成り消たまふ。有為転変、会者定離は、生あるもの(の)ならひにしあれど、我身にとりては、闇夜に灯失へる心ちして、酒に酔へるがごとく、虚舟に浮めるがごとし。旦暮(あけくれ)称名のみをちからに日をおくる。

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