文明19年(1487年)、道興准后は榴ヶ岡を越えて歌を詠んでいる。 |
つゝじが岡を越え行きけるに、わらびをみて、 名にしおふ躑躅か岡の下蕨ともに折りしる春の暮れかな |
寛文7年(1667年)7月25日、天満宮は現在の東照宮の地より御遷座。 |
躑躅岡 |
とりつなげ玉田横野のはなれ駒 |
つゝじが岡にあせみ花咲 |
此歌は、河内国の玉田横野の題にあり。此処にも玉田横野と云処ありといへり、さだかにしれず。又鞭舘とて錦戸太郎国衡出張(でばり)城の跡也。今天神の社あり、無双の景地也。予独吟奉納十日万句の巻頭に、 |
御月ありかゝげ奉る一万灯 | みち風 |
又のとし、大矢数満座のよろこびの会に、 |
|
<ミチバ> |
|
とんたり梅三千羽のそやをゑ(え)たりやあふ(う) | 同 |
大淀三千風は寛永16年(1639年)に伊勢射和の商家に生まれる。31歳の時から45歳まで15年間仙台に住んだ。 天和3年(1683年)5月4日、仙台を立って『日本行脚文集』の旅に出る。 貞享3年(1686年)10月から翌4年3月まで仙台の亀岡八幡宮に滞在している。 元禄2年(1689年)5月5日(新暦6月21日)、芭蕉は三千風を訪ねたが、三千風は既に仙台を離れ、『日本行脚文集』の旅にあった。 |
三千風尋ルニ不知
『曽良随行日記』 |
元禄9年(1696年)、天野桃隣は『奥の細道』の跡をたどり、榴岡天満宮に触れている。 |
山榴岡・釈迦堂・天神宮・木の下薬師堂。宮城野、玉田横野 何も城下ヨリ一里ニ近し。 |
貞亨3年(1686年)3月20日、鈴木清風の江戸の屋敷で開かれた歌仙の発句。 |
寛保元年(1741年)、雲裡房は仙台に住む。山本白英の尽力で冬至庵を結ぶ。 |
元禄2年(1689年)7月、『奥の細道』の旅で金沢から小松へ向かう途中に詠まれた句。 寛保3年(1743年)2月7日、芭蕉五十回忌、支考十三回忌追善で雲裡房が建立。 |
寛延4年(1751年)、和知風光は『宗祇戻』の旅で榴ヶ岡を訪れた。 |
躑躅岡 桜ひしと有にて 此岡につゝしの替り枯さくら
『宗祇戻』(風光撰) |
寛保2年(1742年)4月13日、雪中庵蓼太は奥の細道行脚に出る。10月6日、江戸に戻る。 |
明和7年(1770年)、加藤暁台は奥羽行脚の旅で榴ヶ岡を訪れている。 |
暮るともみちは苦はなし月と花 | 梅月庵喜鳥 |
|||||||||||||||||||||||
いますこしすこしとぬれつ花の雨 | 惟草庵寥岱 |
寂しさは生れつきなり松の花 | 百非 |
|||||||||||||||
木の葉火のぺらぺら過る月日かな | 巣居 |
|||||||||||||||
ふるるものみな輝きぬけふの月 | 心阿 |
梅ちりてはてなき水の月夜かな | 松洞馬年 |
我こころわれにもとらず花の中 | 松洞宗古 |
||||||||
わかれても心は花にとまりけり | 月下庵梅雲 |
世に競べ身にくらべけり竹の露 | 禾月 |
細くとも流れぬはなし春の水 | 舎用 |
瑞巌寺の「芭蕉翁奧の細道松島の文」の碑に曰人、禾月、宗古、心阿、舎用の句が刻まれている。 嘉永5年(1852年)3月19日、吉田松陰は榴岡天満宮のことを書いている。 |
街市の東邊躑躅丘に至る、一に釋迦堂と名づく。地稍高敞にして平田に臨み、天神の祠を建つ。 |
明治26年(1893年)7月29日、正岡子規は榴ヶ岡に遊んだ。 |
二十九日つゝじが岡に遊ぶ。躑躅岡とも書き石榴岡とも書きて古歌の名所なり。 |