明治26年(1893年)7月29日、正岡子規は塩竈から小舟で松島を漕ぎ出す。 |
小舟をやとふて鹽竈の浦を發し松島の眞中へと漕ぎ出づ、入海大方干潟になりて鳬(かも)の白う處々に下り立ちたる山の緑に副へてたゞならず。先づ第一に見ゆる小さき島こそ籬が島にはありけれ。此の島別にさせる事もなきも其の名の聞えたるは鹽竈に近き故なるべし。波の花もて結へると詠みたるも面白し。 涼しさのこゝを扇のかなめかな |
船頭のいふ、松島七十餘島といひならはせども西は鹽竈より東は金華山に至る海上十八里を合せ算ふれば八百八島ありとぞ傳ふなる。見給へやかなたに頂き高く顯はれたるは金華山なり。こなたに聳えたる山巓は富山觀音なり。舳に當りたるは觀月樓、樓の右にあるは五大堂、樓の後に見ゆる杉の林は瑞岩寺なり。瑞岩寺の左に高き建築は觀瀾亭、稍々觀瀾亭に續きたるが如きは雄島なり。いざ船の着きたるにたうたう上り給へといふ。恍惚として觀月樓に上る。 涼しさの眼にちらつくや千松島 |
昭和43年(1968年)11月10日、金子兜太は遊覧船で湾内を一週。 |
午前、遊覧船で湾内一週。金子昌煕と初対面なので、話はずみ、ずっと喋りっぱなし。島空の光り。埠頭の海ほおずき売り。 一時から大会。<形>について喋る。十三回まで、選者詠と選句三句(特)が屏風になっているのにはおそれ入る。貴重な資料だ。小生詠「靄から夜へ島も燈火のわれも美貌」。 夜、宴会。おそくまで、石崎、境野両氏と喋る。そういえば石崎夫妻の作品を小生だいぶとった。
『金子兜太戦後俳句日記』 |