
|
抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。
『奥の細道』 |




|
平安時代初期の807年、坂上田村麻呂がこの島に毘沙門堂を建て、828年、慈覚大師が瑞巌寺の前身松島寺を建てて、ここに五大明王を祀り、五大堂とよぶようになった。 現在の建物は1604年、伊達政宗が紀州(和歌山県)の名工鶴衛門家次に命じて建立した。方三間の宝形造で、四方に勾欄つきの縁を巡らし、正面に向拝をつける。内部に重厚な家形厨子を置き、五大明王を安置する。 有名な蟇股の彫刻など、雄健な桃山建築として、国重要文化財に指定されている。
瑞巌寺 |
|
元禄2年(1689年)5月9日(新暦6月25日)、芭蕉は雄島から帰って五大堂を見に行く。 |
|
帰テ後、八幡社・五太堂ヲ見、慈覺ノ作。松島ニ宿ス。久之助ト云。加衛門状添。
『曽良随行日記』 |
|
寛保2年(1742年)、佐久間柳居は五大堂で句を詠んでいる。 |
|
松島 五大堂より遙に塩やく烟を見付出してむへも心あると打詠て |
|
松しまや海士の伽羅かと風薫 |
|
天明6年(1786年)8月16日、菅江真澄は五大堂に詣でた。 |
|
かく見ありきて、帰さ、ふたたびといひて、円仁の作給ふ五大堂にまうでん。 みまへに二ツわたしたる、二つある梭橋を松陰の橋といふとも、又おしまの、よんべわたりし板橋をともいへり。
『はしわのわかば 続』(仮題) |
|
明治26年(1893年)7月29日、正岡子規は五大堂に詣でた。 |
|
五大堂に詣づ。小さき嶋二つを連ねて橋を渡したるなり。橋はをさ橋とてをさの如く橋板疎らに敷きて足もと危く俯けば水を覗ふべし。 すゞしさや嶋から嶋へ橋づたひ 日やうやう暮れなんとす。 松島や雄島の浦のうらめぐり めぐれどあかず日ぞ暮れにける |
|
松嶋五大堂 松の木を叩いてまはるすゝみかな
『寒山落木 巻二』(明治二十六年 夏) |
|
明治39年(1906年)11月16日、河東碧梧桐は五大堂を訪れている。 |
|
朝瑞巌寺に詣でて、千鳥、鷹、文王の間等を拝観し、政宗の木像にも対面した。七堂甍(いらか)改まり金壁荘厳光をかがやき仏土成就の大伽藍とはなれりける、とある金碧の名残が、扉欄間にほの見えて、何とはなく畏こく打仰がしめる。貞山公の非凡の人たることが、この寺の一装飾を見ても会得されると思う。書院に通って、現和尚と対談した。次で観瀾亭、五大堂にも案内された。 |

|
竹によるこもや囀るふくらじま 三千風 ふくら嶋は田畑有て弁慶守本尊不動有。五大堂は五智の如来、松嶋町より橋二つ越て渡ル。 |

|
西風をやみなければ、えいかでやみぬ、此夕なぎに、福浦島に行といふ人あれば、ともにわたる。日は海にかたぶくに虹のたちたるはいふべくもあらで、おもしろければ むらさめのはれまを見せてちまつしま、いろとりわたる虹のかけ橋
『はしわのわかば 続』(仮題) |

|
昭和11年(1936年)6月25日、種田山頭火は松島を逍遥する。 |
|
瑞巌寺(雲居禅師の無相窟)。 五大堂、福浦島。 松島は雨の夜月の夜逍遥する景勝であろう。 |
|
昭和14年(1939年)5月20日、高浜虚子と星野立子は松島吟行。 |
|
松島 バスが著き遊船が出る波止場かな 松島 島々に名札立ちたる涼しさよ 五月二十日。針久旅館。松島吟行。 |
|
五月雨の松島寒し昼餉まつ 舟著くや五月雨傘を宿の者 五大堂に漕ぎかくれゆく藻刈舟 五月雨や近づく舟の艪休めて |
