2019年高 知

岩崎弥太郎生家〜「岩崎彌太郎先生」の銅像〜
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安芸市井ノ口甲一ノ宮に岩崎弥太郎生家があるというので、行ってみた。

駐車場に「岩崎彌太郎先生」の銅像があった。


 昭和59年(1984)、生誕150年を記念して国道55号線沿いの江の川上公園に建立された。

岩崎彌太郎先生
(1834〜1885)

 岩崎弥太郎先生は、 わが国の近代経済の覚醒期を豊かな先見性と不屈の精神をもって生き通し、今日の三菱グループの基礎を築いた。優れた学才に裏付けされた天分の経済の才で政治だけの変革でない「もう一つの明治維新」を成し遂げた人でもある。

 安政元年(1854年)先生は故郷妙見山上で「後日英名ヲ天下ニ轟カサザレバ、再ビ帰リテ此ノ山ニ登ラジ」と決意して、江戸の儒学者安積艮斎先生の門に入った。土佐藩藩校教授奥宮慥斎先生の格別の推挙であった。

 慶応3年(1867年)藩命により長崎の土佐商会に赴任し、坂本龍馬の海援隊を財政面から支援した。しかし明治6年(1873年)「断然官界に志を断ち、商法をもって身をたてる覚悟」で維新直後の経済界に身を投じ、海運国日本・近代工業国日本の地歩を固めるのに大きく貢献した。

 経済立国によるわが国の繁栄を予見し、それを実践躬行した明治維新の英傑であった。今年は先生生誕150周年にあたる。

岩崎弥太郎生家


 弥太郎は天保5年(1834年)12月11日にこの家に生まれ、波乱に富んだ青少年期をこの地に過ごした。

 生家は平家建て4室、藩政時代の中農の屋敷である。表座敷に南面する小庭には弥太郎が自ら置いたという日本列島を形どった石組みがあり、彼はこれに夢をのせたという。庭にある自然石の記念碑は三菱傘下、諸会社有志により建立された。

 三菱のマークは家紋の三階菱に、土佐藩の三葉柏を重ねて現在の形となった。明治6年からである。又、弥太郎の少年時代よく登った、すぐ西の妙見山には星神社があり、彼が江戸遊学の際ここに祈願し、社殿の門扉に「吾志を得ずんば再びこの山に登らず」と大書したという。坂本龍馬と同年の弥太郎は51才で没したが、明治維新よりわずか18年に、彼の行った事業は壮大でその後の日本経済、政治にも大きく影響した。

安芸市

記念碑


 昭和38年2月、三菱グループ各社の協賛により建立されました。

 記念碑の刻文は、「大漢和辞典」の編纂で有名な諸橋轍次博士によるものです。

   「岩崎彌太郎先生生誕之地」背面碑文の説明

ここは、岩崎彌太郎が生まれたところです。彌太郎は天保5年12月11日、父彌次郎の長男として生まれました。幼少の時は、母美和の教えを受け、成長してからは、土佐藩の参政吉田東洋の導きを得ました。彌太郎は人にすぐれて強い気性でしたが、時に応じて細かいところにも心を配り、遂には近代の一偉人として明治18年2月7日その生涯を終えました。彌太郎は、九十九商会を創設し、台湾出兵や西南の役で政府の軍事輸送を行い、外国汽船との競争にも打ち勝ち、海運業を発展させて、三菱グループの基礎を築きました。弟彌之助や長男久彌も同じくここに生まれました。共に二代、三代の社長としてその発展につくしました。つまり、ここは三菱発祥の地でもあり、またわが国近代産業開発の記念すべき地でもあります。ここは土佐の片田舎に過ぎませんが、はるか南に太平洋を望み、彌太郎の大志がしのばれます。茅葺き屋根の生家と樹木は昔のままで、庭に置かれている石組みは、日本列島をかたちどり、彌太郎が世界にはばたく夢を表わしたものといわれます。先人の偉業をたたえるのは、後に続く者の務めです。私たちはここに碑を建て業績を記し、遺跡を保存して永く後世に伝えることとしました。

 三菱系諸社同人建
文学博士 諸橋轍次並書

日本列島を形どった石組み


「春よ来い」の歌碑があった。


作詞 相馬御風
作曲 弘田龍太郎

春よ来い はやく来い
あるきはじめた みいちゃんが
赤い鼻緒の ジョジョはいて
おんもへ出たいと 待っている

春よ来い はやく来い
おうちのまえの 桃の木の
蕾もみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待っている

 明治16年(1883年)7月10日、相馬御風は新潟県西頸城郡糸魚川町(現:糸魚川市)に生まれる。

 明治25年(1892年)、弘田龍太郎は高知県安芸市に生まれる。3歳の時、父の転任に従って高知を離れた。

不便なところだが、平日にもかかわらず、人が多かった。

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