『奥の細道』東 北


〜白糸の滝〜

中山平温泉から陸羽西線に沿って国道47号を下る。


白糸の滝ドライブインに車を停める。

白糸の滝ドライブインの正面に白糸の滝が見える。


 元禄2年(1689年)6月3日(陽暦7月19日)、芭蕉は本合海(もとあいかい)から清川まで舟で下った。

 白糸の瀧は青葉の隙隙に落て仙人堂岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。 五月雨をあつめて早し最上川

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は大石田から最上川を下り、白糸の滝で句を詠んでいる。

 爰より彼最上川、聞及たるよりも、川幅広く水早し。左右の山続に滝数多アリ。中にも白糸の滝けしきすぐれたり。

   ○短夜を二十里寐たり最上川

   ○しら糸の滝やこゝろにところてん


 延享4年(1747年)7月7日、横田柳几は陸奥を行脚して酒田から舟に乗り白糸の滝で句を詠んでいる。

それより最上川を舟に乗て白糸の滝を過る文月七日の吟

鵲はたのまじふねの最上川
    仝

織姫の筬を貯てや滝の糸
    仝


 宝暦5年(1755年)4月25日、南嶺庵梅至は清川村で舟に乗り、白糸の滝で句を詠んでいる。

   白糸の滝

白糸を染る茂りや幾ところ


 宝暦10年(1760年)4月21日、山形の俳人雨声庵山皓は白糸の滝で句を詠んでいる。

   白糸の滝

茂りから手際も細し滝の糸


 明治26年(1893年)8月9日、正岡子規は芭蕉の足跡を訪ねて最上川を下り、白糸の滝で歌を詠んでいる。

立ちこめて尾上もわかぬ暁の霧より落つる白糸の瀧


 大正14年(1925年)8月19日、荻原井泉水は最上川を下り、白糸の滝を見ている。

しかし、殆んど一日の炎天に照らされて渇いて来た私達が、ここに来て初めて清水の音を聞いた嬉しさは何と云おう。私達は舟を寄せて、その水を飽くまですすったことであった。と、かなりの高さの瀧が一つ、うすく岩肌の上にもつれかかっているのが仰がれる。それが「白絲の瀧は青葉の隙々に落ちて」という白絲の瀧だった。

『随筆芭蕉』(最上川を乗る)

 昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、古口から最上川を下った。

 仙人堂、大杉のむら立つ中に、陰々として苔をかついだ茅の屋根、船を寄せて、しとみ格子から差し覗くと、天狗の面など飾りあり、何を祀つたものやら、船頭に問へば、唯、御仙人様だと云ふ、常陸坊海尊の傳説もあつたと覺えて居る、同じく義經の話も此の川筋にあつた筈、白糸の瀧、さらさらと山を下つて直ちに川に入る、


 昭和31年(1956年)6月5日、高浜虚子は白糸の滝を見ている。

夏山の襟を正して最上川

白糸の滝も眺めや最上川

      六月五日・六日 猿羽根峠。


 平成2年(1990年)8月21日、金子兜太は最上川で舟下りをした。

酒田に目覚む。午前、最上川舟下り。これがよかった。早稲田ひろがり、左に鳥海、右前方に月山。鳥海の水が湧く女鹿(めが)の海の天然の牡蠣(昨夜の仏料理)旨し。

古口から清川まで舟で下る。約一時間。説明がじつに自然で温かみがあり、最上川舟唄もここで聞いてはじめて分る。子規の句の滝のことも実物で分る。青巒。豊かで底の流れの迅い河。

『金子兜太戦後俳句日記』

清川小学校へ。

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