『奥の細道』 〜東北〜
〜旧奥州道中国見峠長坂跡〜
義経の腰掛松から国道4号に戻り、国見峠を上ると、左に旧道に入る道があった。
長坂道
旧奥州道中国見峠長坂跡
国見峠は厚樫山の東腹部に位置し、古代においては律令政府の都である奈良や京都、中世以降は武家政権の幕府が置かれた鎌倉、京都や江戸より陸奥、出羽の両国へと続く官道が、この峠越えに伊達と刈田郡境の地峡部を通り、北へと走っていた。この道は東山道、奥の大道、奥州道中、陸前街道と時代により呼称が異なるが、奥羽地方の幹線道路として機能していた。
伊達駅(藤田宿)を経由し、ほぼ直線状延びた古代の東山道は、阿津賀志山防塁を切り通したあたりから長坂と呼ばれる急な坂道にさしかかり、上りつめた所が国見峠である。この峠周辺一帯の地は、文治5年(1189年)の奥州合戦で源頼朝と藤原泰衡の率いる両軍が激戦を交えた古戦場であり、信夫郡石那坂(現福島市)の戦いで敗死した泰衡の郎従佐藤基治等一族の首級は経ヶ岡の地にさらされた。
近世におけるこの道は、仙台、盛岡、松前藩などの諸侯が江戸と国元とを往復する参勤交代に使用され、元禄2年(1689年)松尾芭蕉が『奥の細道』の紀行で、「路縦横に踏んで伊達の大木戸を越す。 」と旅したのもこの道である。
明治10年代の後半になると、国見峠の急な坂道は車馬の通行に適せず、山麓に新道が開通されるにおよんで、長坂道は廃されて歴史的な使命をを終えるが、旧道の景観と遺構はよく保存がなされている。
国見町教育委員会
長坂道を上ると、芭蕉翁碑があった。
芭蕉翁碑
遙なる行末をかゝえて斯る病覺束なしといへと羇旅邊土の行脚捨身無常の觀念道路にしなん是天の命なりと氣力聊とり直し路縱横に踏て伊達の大木戸をこす
昭和42年(1967年)5月、国見町教育委員会 芭蕉翁碑建設委員会建立。
それにしても、なんと不便な所に碑を建てたのだろう。
葛の花が咲いていた。
元禄9年(1696年)、天野桃隣は義経の腰掛松から伊達の大木戸へ。
経塚山此所なり。又海道へ出るに、国見山高クさゝえ(へ)、伊達の大木戸構(かまへ)きびしく見ゆ。
元文3年(1738年)4月23日、田中千梅は松島行脚の途上、伊達の大木戸を越える。
東路のはるけき道を行めくりいつかとくへきと讀みし下紐の関も此邊にや厚加志山を過き鞍割坂鐙摺なといふ難所を喘(アヘキ)付く
元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、伊達の大木戸の跡を見ている。
夫より伊達の大木戸の跡を見る。左の方は國見峠とて山なり。右は地さがりて田畑打續き。阿武隈川の際に到る。今も猶木戸の跡。二重なる空堀なり。左の山より堀續けて。十二里の間といふ。紛ふべきもなき要害なり。古への下紐の關なりとぞ。
延享4年(1747年)6月1日、横田柳几と武藤白尼は伊達の大木戸を通る。
伊達の大木戸を過るとて
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大城戸の跡やまもりて華茨
| 尼
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宝暦2年(1752年)、白井鳥酔は伊達の大木戸を訪れている。
○伊達大木戸 下紐の關の跡なりと聞て
秋風や草も紐とく關の跡
宝暦13年(1763年)3月28日、二日坊は伊達の大木戸を訪れている。
伊達の大木戸ハ莇の花の猛く、蕨の手のいかめし
下紐の関を尋ねもとむれとも知る人なし
明和元年(1764年)、内山逸峰は伊達の大木戸で歌を詠んでいる。
こゝかしこ見あるきて貝田といふ所へ行に、西の方に木もなき丸山有、爰を伊達の大城戸ともいひ、又下紐の関とも云。すなはち貝田にとまる。下紐の関にて、
笹枕よなよなかはる旅人の心もとけぬ下紐の関
明和7年(1770年)、加藤暁台は奥羽行脚の旅で伊達の大木戸を越える。
山を負ひ澗を抱て一騎万夫に敵すといへる地勢、伏虎のごとし。煙雨わずかに夕陽をひらけば、馬をとゞめて頭をめぐらす。
さみだれの山兀として伊達の木戸
| | 暁台
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弓手につゞくこへ田長島
| | 菊明
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安永2年(1773年)、加舎白雄は伊達の大木戸を越える。
伊達の大木戸を過つゝ下紐の関はゝかりの関などうちこゆるほど
行まゝの関に指折あきさびし
寛政3年(1791年)6月1日、鶴田卓池は伊達の大木戸を訪れている。
二重塔 伊達の大切戸
古名下紐ノ関 銀山 国見山近シ 此日氷売ニ逢
東路のはるけき道を行めぐりいつかとくべき下ひもの関
享和元年(1801年)5月、常世田長翠は下紐の関を越えて句を詠んでいる。
下紐の関越るとて
関こすや口にふくミしさくらの実
戸谷双烏、戸谷朱外宛書簡
常世田長翠は伊達の大木戸でも句を詠んでいる。
享和2年(1802年)、小蓑庵を中村碓嶺に譲り、酒田に移住する時のことであろうか。
明治26年(1893年)7月27日、正岡子規は桑折から汽車に乗って伊達の大木戸を通り過ぎた。
桑折より汽車に乗る。伊達の大木戸は夢の間に過ぎて岩沼に下る。
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