小早川隆景は、兄の吉川元春とともに、おいの毛利輝元を助けて中国統一を完成させて瀬戸内海の水軍を掌握していた。 隆景は、天正年間毛利氏の広島築城と相前後して、沼田川河口の三原の小島をつないで城郭を築き、ここに移った。三原城は海に向かって船入りを開き、城郭兼軍港としての機能をそなえた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えたので、「浮城」とよばれていた。 小早川氏の移封後も、福島氏・浅野氏の支城となっていたが、JR山陽本線および新幹線が本丸を貫き、今は天主台跡とそれをめぐる濠および船入櫓跡・中門跡などが残るのみである。
三原市教育委員会 |
三原城の天主台は、三隅の二重櫓間を多聞櫓で築いた天守曲輪でした。築城主小早川隆景から福島正則時代、さらに三原浅野氏と城主が代わりましたが、天主(守)閣の建造はありませんでした。 天主台西面の裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群を抜きます。しかも、個々の石の控え(奥行き)よりも表面を長く取った石積方法(アブリ積・鏡積)を採用していることが特徴です。この積み方は崩れやすいと言われていますが、三原城天主台の場合、隅部から中央部に向けて緩やかに凹ませるとともに、下方の立ち上がり勾配を緩やかに積むことによって石の孕(はらみ)を自制し、美しい曲線を生み出しています。 尚、北東部隅の算木積という細長い角状の石を使った規則正しい積み方は福島正則時代、西南部隅と北西部隅は縦長の石を含んだ不完全な算木積であることから、小早川隆景時代の築造と考えられます。 又、割石で刻印のある東面と北面の東側は、割石であることから福島正則時代、西面と北面の西側は小早川隆景時代の築造と思われます。 |
小早川隆景公は天文2年(1533年)毛利元就の三男に生まれ、幼にして沼田・竹原両小早川を継がれた。永禄・天正年間、三原湾に海城を築き内海の統治と地方産業の興隆に尽くされ、その治績は筑前福岡と山陽道三原が中心であった。天正10年以来豊臣秀吉公の帷幄に侍り、隆景公が慶長2年(1597年)病歿するや、その訃報に接した太閤は「天は何ぞ我が隆景を奪うや」と大いに慨歎された。ここに隆景公を三原の開祖として仰ぎ、その遺徳を永く顕彰するため、この銅像を建てる。 |