2024年広 島

比治山公園〜加藤友三郎銅像台座〜
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比治山公園に加藤友三郎銅像台座があった。


加藤友三郎銅像台座・碑文枠の由来

 ここに立っている石台には「元帥海軍大将大勲位子爵加藤友三郎」と刻まれており、かつては広島出身初第二十一代内閣総理大臣に就任した加藤友三郎の銅像が建立されていました。

 加藤友三郎は修道学園の前身である藩校をはじめ、海軍兵学校などに学んで海軍軍人となり、その後海軍次官、海軍大臣などを務めました。大正10年ワシントンで開催された「海軍軍縮会議」にわが国の首席全権として出席し、米英の提案による海軍軍縮案に対して、わが国の軍国政策による諸外国との軋轢を取り除き国際協調による世界平和のために、軍部の強い反対を押し切って、その提案を承諾したのです。

 大正10年6月、軍縮推進の最適任者として推挙され第二十一代内閣総理大臣に就任し、海軍の軍縮のみならずシベリアへの陸軍派兵を引き揚げたほか、軍事費の削減で破綻寸前となっていたわが国財政の立て直しに尽力し、文教民生面の充実に配慮した政策をすすめたのであります。しかし、総理大臣在任中に病に倒れ大正12年8月に逝去しました。

 昭和9年、当時のわが国の置かれている国際的な立場は、軍部の政治介入への教化、中国への進出、国際連盟の脱退などで孤立化の傾向にあり、加藤友三郎がすすめた各国との協調による平和の推進に離反した方向にすすみつつあったのです。このような不穏な情勢の中で、今一度加藤友三郎の意思を天下に周知させるために、広島財界有志の発起で銅像の建立が企図され、内外から大勢の協賛を得て、昭和10年11月にその完成をみたのであります。

 また、銅像台座向かって左手の石枠には「銅像建設由来碑文」として銅板が次のように記されていました。

石 枠


「銅像建設由来碑文」は省略。

 昭和16年、わが国は加藤友三郎の意に反して米英との間で戦争を始めました。資源の乏しいわが国としては戦時に必要な金属類の調達が喫緊の課題となり、加藤友三郎の銅像も金属類の回収対象となって献納され、石の台座のみが残されて今日に到っているのです。戦争のための資材も不足がちなわが国の情勢にもかかわらず、いかに無謀な戦いに突入したかが窺われ「皇国ヲ万代ノ泰キニ護るランコトヲ」の願いも虚しく、わが国は焦土と化して敗戦を迎え、加藤友三郎らによって培われた帝国海軍の伝統も白昼夢の如く霧散してしまったのです。

 私たちは、昨今の緊迫した世界情勢の中にあって、今こそ加藤友三郎の国際協調による平和の精神を汲み取り、多くの方々に彼の功績を認識していただくために銅像の復元を企図し、広島市中区基町の中央公園自由広場の一角に、ワシントン会議に出席当時のフロックコート姿での銅像」を建立致しました。

 ここの台座と碑文石枠は、二度と無謀な戦争を起こさないことの誓いとし、太平洋戦争時の遺産として保存すべきであると考え、広島市にこの説明版を寄付することを委員会において決めたものであります。

加藤友三郎銅像復元委員会

 帰りの市内循環バス「ひろしま めいぷる〜ぷ」(オレンジルート)がなかなか来なかった。

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